教室紹介

札幌医科大学医学部口腔外科の教室沿革

1932年(昭和7年)3月28日、札幌師範学校跡地に北海道社会事業協会札幌病院が病床数100床、診療科は内科、外科、産科、耳鼻科、歯科の5科で開院したのが教室の始まりである。その際、1926年(大正15年)に東京歯科医専を卒業し、1927年(昭和2年)新設の北大病院歯科に勤務していた松野 新(まつの あらた)が歯科医長として赴任した。
白黒の附属病院の写真
昭和25年頃
1945年(昭和20年)4月、北海道社会事業協会札幌病院は北海道庁立女子医学専門学校となり、同校の廃校後、1950年(昭和25年)、北海道立札幌医科大学が開学した。翌1951年(昭和26年)4月、整形外科学、法医学、放射線医学、口腔外科学の学科目が増設され、同年6月1日付けで東京大学医学部(病院長)を定年退官となった金森虎男が、将来歯学部を創設すべく大野精七学長の懇望により着任した。金森教授は歯学部設置に向け、多方面にわたり奔走する一方で口腔外科学教室の創設整備とともに歯科診療所の拡充に努め、昭和28年には外来ユニット27台、病床16、診療所スタッフは15名に達した。

1955年(昭和30年)6月、東大医学部歯科学講座より林 一助教授が赴任し、1957年(昭和32年)11月27日、金森虎男教授が胃がんにより逝去された後を継いで1959年(昭和34年)4月教授に就任した(金森教授の全身骨格及び脳標本は本学標本館に保存、展示されている)。その間、1958年(昭和33年)4月には歯学部設立の前段階として口腔治療学が学科目として増設され、1959年(昭和34年)1月、岡田泰紀教授が東京医科歯科大学歯学部保存科から着任している。これを機に口腔外科、保存、補綴、矯正歯科といった歯科臨床の主だった臨床各科の診療体制が整った。1961年(昭和36年)7月、林 一教授が東大医学部歯科学講座教授へ転出、同年8月には佐々木元賢九州大学医学部歯科口腔外科学講座助教授が教授として着任した。佐々木教授は九州大学医学部を卒業後、新制の東京医科歯科大学歯学部第一期卒業生の一人で、講座始まって以来のダブルライセンスを持つ教授となった。

1964年(昭和39年)7月には、教室制が講座制となり、大学院制度にも伴って口腔外科学第1講座(旧口腔外科学講座)、口腔外科学第2講座(旧口腔治療学講座)と改称され、診療部門は口腔外科を佐々木元賢教授、歯科保存、歯科補綴、その他歯科一般を岡田泰紀教授、矯正歯科を坂本敏彦助教授(後に東京医科歯科大学助教授、東北大学教授)が担当した。

1967年(昭和42年)6月、北大歯学部新設に伴い、岡田泰紀教授は北大へ移籍、昭和43年4月に口腔外科学の2講座が統合されるまで佐々木元賢教授が口腔外科学第2講座教授を兼務した。1976年(昭和51年)3月、佐々木元賢教授が長崎大学に歯学部を新設するために転出し、入れ替わりに同年4月、小浜源郁助教授が東京医科歯科大学より着任し、翌1977年(昭和52年)8月教授に昇任した。小浜源郁教授はシングルライセンスの歯科医師として4代目教授の責を定年まで全うされた唯一の教授であった。2003年(平成15年)12月、5代目教授として平塚博義琉球大学助教授が就任した。2018年(平成30年)11月、6代目教授として宮崎晃亘准教授が就任した。
附属病院外観写真
現在の附属病院
平成24年時点の同門会員数は443名、歴代の同門会長は松野 新、藤田典雄、館山諄一、藤井久弥(現在)の各氏が努めている。なお、現在まで、口腔外科教室出身者として他大学の教授に就任した者は、千野武廣(松本歯科大学、故人)、神田重信(九州大学)、篠崎文彦(九州歯科大学、山口大学)、小野 繁(東京医科歯科大学)、上石 弘(近畿大学)、藤田浄秀(横浜市立大学)、北 進一(旭川医科大学)、賀来 亨(北海道医療大学)、古田 勲(富山大学)、山本悦秀(金沢大学)、砂川 元(琉球大学)、平塚博義(札幌医科大学)、野口 誠(富山大学)、伊藤静代(旭川大学、故人)の各氏である(敬称略)。

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