退任に寄せて:我が胸部外科人生を振り返る
心臓血管外科
教授 川原田 修義
この度、2025年3月をもちまして札幌医科大学心臓血管外科学講座教授を定年退職いたしました。1988年に札幌医科大学医学部を卒業し、外科学第二講座に入局してから37年,教授職を拝命してから約10年にわたり務めさせていただきました。この間、多くの小過と一つの大過があったことは疑いありませんが、曲がりなりにも定年まで職務を務めることができましたのも、多くの先輩のご指導、同僚の意見や協力、後輩諸君の支援の賜物と心より感謝申し上げます。
私の入局した札幌医科大学外科学第二講座はその前身が胸部外科学講座であり、札幌医科大学胸部外科学講座は、1958年(昭和33年)に開講され、初代教授は和田壽郎先生が担当されました。1968年本邦初の心臓移植手術を行ったことで著名ですが、他にも人工心肺装置の研究、弁膜症に対する人工弁である和田カッター弁の考案・作成、漏斗胸に対する胸骨翻転術など、多くの業績を残されております。その中でも心臓移植手術は、当時小学生3年生であった私にとって、報道を目にした時の驚嘆と衝撃を受けたことを覚えております。「どうやって心臓を取り替えるのだろう。」単純な子供の疑問が、その後の私の人生の選択に影響を受けたことは否めません。和田壽郎教授のあと2代目教授は小松作蔵先生でしたが、私は小松作蔵先生が教授になって10年目の時に入局しております。3代目安倍十三夫教授、4代目樋上哲哉教授を経て,私が2015年に教授に就任しました。この間の2013年に外科学第二講座は心臓血管外科と呼吸器外科の2つに分かれました。北海道で初めての独立した呼吸器外科教室が設置され初代教授に渡辺 敦先生が就任しております。これが札幌医科大学胸部外科学講座の歴史になります。
私は入局と同時に大学院へ進学しました。臨床では、同時に人工心肺グループに配属され、実験を行っていない日々は臨床の手術で人工心肺を操作しておりました。この人工心肺グループに入っていた期間は非常に勉強になりました。現在の専攻医は手術に関して知識はありますが、人工心肺に関しては臨床工学士に任せきりで、理論がわからない専攻医が多く存在します。手術手技を勉強しても、人工心肺と心筋保護については不勉強になるとトラブル回避ができなくなります。この大学院時代はイヌを用いた肺移植の再灌流障害の実験を行い学位を取得しました。移植治療への興味が継続していたので、実際の移植治療を見るべく、大学院修了後にピッツバーグ大学へ留学しました。当時ピッツバーグ大学は、心移植や肺移植も盛んでしたが、スターズル先生のグループによる肝移植が最も有名でした。このラボに、藤堂 省先生がいて、のちに北海道大学消化器外科1の教授になり、北海道大学病院で臓器移植医療部が開設されております。そのため、それ以後は札幌医科大学外科学第二講座では、北海道の心移植を含めての臓器移植は北海道大学病院で行うこととして、心臓血管外科手術の心移植以外の最先端治療を行うことで札幌医科大学心臓血管外科を発展させようという意識が強かったと思います。
私は1999年に札幌医大に戻ると、血管外科チームに配属され、open surgeryを担当し、大血管(解離性大動脈瘤、破裂性大動脈瘤など)の手術を専門にすることにしました。また同時に、現在手稲渓仁会病院で勤務している栗本義彦先生を中心に胸部大動脈瘤や腹部大動脈瘤に対して血管内治療(ステントグラフト内挿術)を取り入れ、企業用デバイスが発売される以前から医師の手作りのデバイスを使って最先端治療を2001年より開始しました。
その後は大動脈瘤外科を専門として、胸部・胸腹部大動脈瘤術後の脊髄障害を研究テーマに選び、胸腹部大動脈瘤の再手術、Adamkiewicz動脈の同定、ステントグラフト内挿術による脊髄障害のリスクなどの研究で、アメリカ胸部外科学会やヨーロッパ心臓胸部外科学会などで多くの発表を経験させていただきました。日本の学会活動では、日本胸部外科学会理事、日本血管外科学会理事、日本心臓血管外科学会国際会員、評議員、禁煙推進学術ネットワーク理事など、多くの学会活動にも参加させて頂き、まだ継続中でもあります。また、心臓血管外科専門医テキストや呼吸器外科テキスト作成、大動脈瘤・大動脈解離診ガイドライン作成などに携わらせて頂きました。
1999年から2013年まで連続して勤務して、准教授まで昇進しておりましたが、前任の教授に様々な問題が発覚し、教授の下での勤務が辛くなり、2013年3月に札幌医科大学を退職しました。退職後は札幌中央病院心臓血管外科に勤務し副院長を兼務しました。この後冒頭に記載した一つの大過が札幌医科大学心臓血管外科学講座に起きるわけです。
それは4代目教授が懲戒処分を受け解雇になったことです。これは長い札幌医科大学の歴史上、現役教授が懲戒解雇になった案件は無く、極めて残念な事案でした。その直後に医局の立て直しに、私が戻され教授選挙を行い、5代目として就任することとなりました。極めて特殊な例であると思いますし、医局員もほとんどいなくなり、臨床、教育、研究が立ち行かない状況になりました。人がいなければ組織になりませんので、長期計画で医局員を増やしていく以外に打つ手立ては無く、医局員を入局させるために学生教育に力を入れ、まずは心臓血管外科に興味を持ってもらうことから始めました。これにより、就任して退任するまでの10年で26人の新人を入局させることができました。通常の診療科では、それほど多いという人数ではないかもしれませんが、現在外科が最も成り手がいない診療科であり、全国的にも小児科や産婦人科よりも急激に減少している現状を省みると、26名は多い人数だと自負しております。他の診療科と違って、外科専門医はサブスペシャリティ制度で成り立っており、外科専門医を取得しなければ、消化器外科専門医、心臓血管外科専門医、呼吸器外科専門医、小児外科専門医、乳腺内分泌外科専門医が取得できないので、トレーニング期間も長くなり、それでいて給料は他科と変わりがないので、学生には全く人気がありません。その中で心臓血管外科の入局者を増やすことは大変でした。しかし、人員が増えたことで、連携施設への医師の派遣も可能になり、地域医療への貢献や、連携施設とのコミュニケーションも活発化し関係も強化されました。これにより医局の立て直しに成功したと考えております。この大過を乗り切るには、適材適所への人事異動や専攻医の発掘に加え、学生や専攻医への教育が最も重要であり、単純に臨床のみ、手術手技のみを行わせるだけでは、専攻医の人間性が育たないと考えております。
札幌医科大学での教授就任中の日々を振り返って実感することは、当然のことではありますが、組織は人であり、人が組織を作ります。そして組織は人材と体制が両輪となって機能しており、組織には明確な目的や目標が必要であるということです。
最後になりますが、これまでご指導を頂いた諸先輩の先生ならびに現役で活躍されている先生方には多くのご支援とご指導を頂き、心から感謝申し上げます。そして札幌医科大学の使命は「建学の精神」に表現されていることの達成ですが、それには現役の教職員だけの力では必ずしも十分ではないと思っておりますし、今後は、札幌医科大学医学部の同窓生の一員として、同窓会諸氏とともに母校へどのような貢献が可能であるのか考えていきたいと思っております。