退任教授・役職者

退任のご挨拶

遺伝医学
教授
櫻井 晃洋

2025年3月末をもって、札幌医科大学を定年退職いたしました。もともと北海道とは縁やゆかりがなかった私ですが、12年前に札幌医大に奉職する機会を与えていただき、札幌医大での遺伝医療の体制の構築や遺伝医療に従事する人材の育成に携わることができました。自分がやりたいと思うことを自由にやらせていただき、大変充実した在任期間を過ごすことができた幸せをあらためて実感しています。

私は内分泌内科医として学んでいた信州大学で、卒後4年目に運と縁にめぐまれてシカゴ大学留学が実現しました。そこで遺伝性内分泌疾患、具体的には甲状腺ホルモン不応症の分子遺伝学的な発症機序解明の研究に取り組んだのが、遺伝学との出合いでした。帰国後には臨床の場で遺伝性内分泌腫瘍の患者さんに出会い、臨床遺伝への関心がさらに深まりました。当初は多発性内分泌腫瘍症の原因遺伝子探索や、原因遺伝子が(他グループによって)同定されてからはそのタンパクの機能解析などの基礎研究を行っていましたが、数多くの患者さんと出会う中で次第に臨床研究にも取り組むようになりました。ただ、臨床遺伝学的な研究手法などは経験がなくてよくわからず、せっかく提供していただいた試料をどのように活用していけばよいか困っていた時に、幸運なことに信州大学の衛生学教室に、臨床遺伝学の大家である福嶋義光先生が着任されました。その後は福嶋先生の教室に日参して、臨床遺伝学を学び、また病院での臨床遺伝部門の立ち上げや修士課程での遺伝カウンセラー養成コースの開設などのノウハウを直に見て学ぶことができました。

その後、福嶋先生にお声がけいただいて、信州大学の老年医学講座(内分泌内科)から社会予防医学講座遺伝医学分野という基礎講座に異動することになり、私は「遺伝のことが多少わかる内分泌内科医」から「内分泌内科をバックグラウンドにした臨床遺伝の専門家」という道を歩むことになりました。基礎講座に移ったあとは、学部教育にかなりのエフォートを割いたほか、遺伝性内分泌腫瘍の全国レベルでのコンソーシアムを設立してデータベースを構築するほか、診療ガイドの制作など、むしろ臨床的な色合いの強い研究活動が中心になっていました。

このような時に、札幌医大で遺伝医学の教室が新設されて公募が行われ、初代の教授に選んでいただくという運に恵まれました。札幌医大の着任は文字通りゼロからのスタートで、中古の机ひとつ、椅子ひとつというところから始まりましたが、何もないところから新しいものを作っていく楽しさを感じながらの毎日でもありました。多くの方々の支えをいただき、着任半年後に附属病院に遺伝外来を開設し、2年後の春には修士課程の遺伝カウンセラー養成コースに1期生3名を迎えることができました。在任期間中に新規性のある大きな研究成果を出すことはかないませんでしたが、厚労班やAMEDの研究費をもとに遺伝医療の発展と普及のための活動はそれなりにできたかと考えています。また、そのような活動を評価していただき、遺伝カウンセリング学会、人類遺伝学会、遺伝子診療学会といった遺伝関連の主要学会では理事長や理事の職を務めさせていただきました。

医師になってからの40年あまりを振り返ると、「やりたいことを探しながら与えられた課題に打ち込む」、「臨床医として自らを磨きながら基礎研究に力を入れる」、「遺伝医学の教室に在籍しつつ卒前教育や臨床研究に取り組む」、そして札幌医大に着任してからは「遺伝医療の発展普及のために組織づくりや人材育成に取り組む」とおおよそ10年ごとの4つの時期に分けられます。それぞれの時々で素晴らしい師匠に出会い、運と縁に恵まれた結果ですが、見方を変えると、その時々に考えていた将来像というのはほとんど実現せず、いつも予想外の未来が展開していました。

これからの未来の札幌医大、未来の医療を担う若い方々には、師匠に恵まれること、よい師匠を選ぶことの重要性をまずは強調しておきたいと思います。そして目の前の課題に集中して取り組むことと(そうすれば未来はあれこれ悩まずともおのずから開ける)、想定外に変化していく環境や境遇に対応できる柔軟性を身に着けることを期待します。また私からの最後のメッセージとして、「運命の神には前髪しかない」という言葉を送りたいと思います。人生を変えうる機会は誰にも訪れますが、それを手にするチャンスは一瞬のものです。あとから再びそのチャンスを手にしようと思っても、通り過ぎたチャンスは再び手元に来ることはありません。

札幌医科大学のますますの発展、そして札幌医科大学で学ぶ学生、若い医師や研究者の皆さんの将来が実り多いものであることを期待し、退任のご挨拶とさせていただきます。