退任教授・役職者

退任挨拶

札幌医科大学 医学部救急・集中治療医学講座、高度救命救急センター 教授 浅井 康文

 早いもので、1999年9月1日に教室を任せて頂いて、2012年3月31日で退任することとなりました。ちょうど40年間に渡り、札幌医科大学に育てて頂き、いい潮時と思っております。札幌医科大学教授や諸先生、看護部長・看護師長を初めとする看護師の方々、また臨床工学士の先生、大学関係各位に、いつもご指導を頂き感謝しております。この間新入教室員も毎年門を叩いてくれ、講師以上のスタッフを中心に教室員の皆が運営に協力してもらい、ありがたく思っています。

 1999年10月の札幌プリンスホテルでの教授就任式では、目標として①高度救命救急センターへの昇格、②救急集中医療講座となる、③まだ札幌医科大学で開催していない日本救急医学会の主催の3つをあげました。到達し得ないと思えた3つの目標でしたが、2002年10月1日より高度救命救急センターとなり、2008年4月1日より救急・集中治療医学講座、さらに2008年10月には第36回日本救急医学会を主催することが出来ました。また私は教室運営では4つの柱をあげました。すなわち、①救急医学、②集中治療医学、③災害医学、④移植医療ですが、このうち災害医療は救急医学の延長として捕らえ、2001年3月31日の有珠山噴火では重症熱傷患者や重症外傷患者の広域搬送を構築しました。2001年6月の第9回ヨサコイソーラン祭りのテロ事件では左心室後壁の穿孔例を救命しました。もし亡くなっておられたらヨサコイソーラン祭りは継続していなかったと言われ、インパクトがある症例でした。また2001年の沖縄サミットでは、北海道からは唯一我々外傷チーム(医師3名、看護師2名)が呼ばれ、これが2008年7月の北海道洞爺湖サミットの救急医療体制に加わり、浅井は医療の副本部長をやらせて頂きました。その後は2010年の横浜でのAPECにも参加することが出来ました。DMAT(災害派遣医療チーム)では、札幌医科大学と北海道消防学校との協定で、災害時の二台の救急車と運転手の確保がなされました。2011年3月11日の東日本大震災では、宮古市への医師派遣や、DMATの花巻から千歳空港への搬送を行いました。

 海外での災害医療は、国際緊急援助隊(JICA:国際協力機構)の活動で、浅井は2001年1月、地方公務員として初めてエルサルバドル地震に派遣されたました(副団長)。2006年12月にはこの100年間で最大の死者を出したといわれるスマトラ沖地震(バンダアチェ)に派遣され(副団長)、2007年より国際緊急援助隊医療チーム支援委員会委員長となりました。教室関連では、丹野克俊先生と北海道消防学校の鈴木靖講師がインドネシアの地震に派遣されました。

 移植医療では1997年に出来た臓器移植法後に北海道で始めてのドナーカード所持の臓器提供(2腎)、その後2年3ヶ月間臓器提供が北海道でなかったが、教室で膵臓と2腎の提供がありました。また第52例目と106例目の脳死下臓器提供の症例を出し、北海道の臓器提供の節目での活動が出来ました。

 私の教授在任中は、同級生(札幌医大19期)である今井浩三前学長、放射線医学の晴山雅人教授など、同級生である誼で、助かることも多々ありました。

 今後は外から、島本和明学長を中心に発展する札幌医科大学を応援して行きたいと思います。本当に長い間、ありがとうございました。