退職にあたって

札幌医科大学医療人育成センター 英語学 教授 森岡 伸

 34年間である。この大学に講師として着任してから退職を迎えるこの春までの時間だ。実に長い時間ではあるが人の記憶とはいい加減である。つまらないところは端折り、自分に都合の良い部分だけが形を整えて記憶に納まっている、と言ってもいわゆる「楽しい、嬉しい」ことだけが残って、あとの嫌なことはきれいさっぱり忘れている、というのでもない。色々な事が自分流にうまく「物語」化されて残っている、ということだ。そういう風に過去を自分の記憶に納められないと人間は落ち着けない動物なのだろう。

 私が着任した頃の医大はもちろん携帯もメールもない時代である。ファックスもまだない。コミュニケ―ションの手段としては置電話か手紙だ。だから顔を向け合って議論がよくされていたし、人の肉声が色々な意味でまだ重要な役割を果たしていた。教室の学生の声も今より大きかったように思う。質問ももっとあった。自分の声で自分の意思を伝えるのでなければ、廻りの世界は動いてくれない。近頃の学生に一番感じるのは声が小さいということだ。私の耳のせいもあろうが、このことについては他の先生方からの異論も少ないように思う。情報交換は指先のタッチングに頼ってしまい、声が小さくてもさして不利益は起こりづらい。議論も少なくなる。テクノロジーはこうして人間を徐々に変えてゆくのだろうか。テクノロジーといえば英語を教える立場として一つ気になるのは、外国語の自動翻訳である。この技術が急速に進歩している。これがもう少し進むと、ウェアラブル端末が相手側の外国語をすぐさま自国語に置き換えて囁いてくれるようになり、外国人相手のコミュニケーションの壁は一挙に下がるという。これまであくせくと何年間も英語だの、ロシア語だの、と汗をかいてきた労力が省かれてゆく。語学をやるのは一部の研究者や特殊な仕事に携わる人たちだけになるだろう、という。では医療人も含めて学生はそんな勉強の苦労から解放されるのだろうか。語学の不得意な学生は肩の荷を下ろして万歳をするかもしれない。通訳の必要性も格段に下がり、語学の先生は職替えも考えねばならなくなるのか。自分に引き付けてそんなことも頭をよぎる。しかし、事はそうすんなりと変わってゆくとも思えない。テクノロジー自体は進化しても、それを社会のヒトとヒトとの関係に落ち着かせるには、ある程度の調整時間は必要だろう。また、そんなテクノロジーに頼れる職種とそうでない職種もあって、その類の選り分けもされてゆく筈である。話がやや拡大するが、昨今よく語られるAI(=人口知能)を搭載したヒト型ロボットが跋扈する時代は間違いなく来るだろう。もうそこに来ているという声もある。それはどの程度有り難く、またどの程度危険なものなのか。希望に満ちた楽観と、その行きつく先は人類の終りだという悲観の声も入り混じって、考えるだけでも興味深くドキドキするような未来図である。しかし語学学習も含めコミュニケーションとなれば、五感を総動員してそのトータルな手ごたえに充実を求めてきたのが人間の姿だろう。コトバを使うというのは極めて人間的な行為であるだけに、この領域までテクノロジーの代替が進むとなれば、人間観、ひいては生命観まで修正を余儀なくされてゆくのか。それも「運命」というなら仕方ないし、とやかく騒ぐ気にもならない。ただその到来が出来るだけ緩やかなプロセスであってほしい、と思う。