「人生 出会いと思い出作り」

小樽市病院事業管理者・札幌医科大学名誉教授 並木 昭義

 人はいろいろな時代、人、立場などに出会い、その中で生きる。人がその出会いをどのように生かし、生かされて成果を上げるかはその人の運、意識、行動のあり方によって決まる。その成果がその人の心の奥底に響き、残るものが思い出である。その思い出の内容、質、量が、その人の人間性の形成と人物評価に大きな影響を与える。私はこれまで多くの貴重な出会いによって有意義ですばらしい思い出作りをさせてもらった。

 幼少時の人間形成:人は両親の出会いから育まれ、両親の働く姿を見て育つ。父親は明治45年創業の薬店の主人として年中無休で働き、本業に恵念し、子供の教育に力を注いだ。商人として客の要望に最大限応える。名誉職、政治的活動に付かない。子供に財産より教育を残すことを信念とした。母親は早朝から夜遅くまで働き、子供におふくろの味の食事を与え、自慢することを戒めた。食事は子供に安心と喜びをもたらす。稲穂は実れば実るほど頭を垂れると言った。

 大学生時代:学生の運動(野球・スケート)部活動、活躍を通して貴重な経験、教訓を得た。部活動はスポーツのプレーを楽しむためでなく、勝負を楽しむ。各個人は試合で活躍し、試合に勝ち、優勝することを目指す。スポーツは才能2割、環境2割、努力6割と言われ、地道に厳しい練習をしなければ決して実力、実績は付かない。素直、誠実、忍耐のあるものは上達するし、主軸選手になれる。部活動及び試合での実力、実績がないと主軸になれず、また部員をまとめ、引っ張っていけない。チーム内に複数の主軸がいて、同じ目標を持ちかつ一致団結しないと優勝できない。部活動で同じ釜の飯を食べ、感動を共にすることで部員同士の絆が深まり伝統が形成される。共通、共感の伝統をもつ、またそれを語り合うことで先輩、後輩の強いつながりが形成される。部活動、活躍で学んだことが、その後の私の人生における組織の管理、運営の基本姿勢として生かされた。

 卒後研修医時代:大学紛争で大学病院での研修が受けられず、市内の救急病院、地方病院で診療研修を行った。その時、緊急手術や救急救命処置時に麻酔の知識と技術の必要性を痛感し、麻酔科に入局した。これまでの大学の医局制度および学位制度のあり方に反対を訴えていた44年青医連の連中が相次いで入局した。我々44年青医連7名を信じて入局を承認した高橋初代教授の決断と勇気に感服した。結局そのことが当教室が新たに躍進していく切っ掛けとなった。

 麻酔科研修時代:新人教育責任者は当時助教授の内藤先生(筑波大名誉教授)であり、我々に麻酔学の知識と麻酔科診療に関する正しい考え方と手技を段階を踏んで熱心に時に厳しく指導された。この時の教育が我々に大きな影響を与え、当教室の若手麻酔科医だけでなく研修医、学生教育における基本的な教育方針と手法になり、今日まで脈々と続き、高い評価を得ている。高橋先生からの教えは「日常臨床を大切にすること、自ら臨床および基礎研究を行いその結果を分析、評価して学会発表、論文投稿する」であった。新ステロイド静脈麻酔剤を上腹部手術に使用した際に術者から腸管が収縮して縫合が出来ないとのクレームが付いた。その機序究明に関する研究が学位の仕事になった。

 市立小樽病院麻酔科時代:1976年麻酔科開設のため医長そして赴任した。その時高橋先生より市立病院のためだけでなく、小樽市の地域住民のため働くように言われた。今年の4月から小樽市病院事業管理者として赴任しているが同様な心掛けで活動している。高橋先生より当教室とエール大学麻酔科の関係修復を含め留学を勧められた。新しい出会いを求めて行くことにした。

 エール大学留学時代:米国はすべてがスケールが大きく、物質的に豊かで、かつ生活が楽しめる魅力的な国である。その反面留学の目的をしっかりしていなければ仕事は成就せず、安易な生活に流される。個人の権利、主張は尊重するが個人に厳しい評価と責任を与える。人間性は世界共通で日本で好かれるものは米国でも好かれる。嬉しかったのはAnesthesiology編集主幹より、私の研究が評価されたこと、私の後も後輩に留学のチャンスが与えられることであった。

 教授時代ー前期(就任時?7年):教授就任前の教室の状況は診療面、教育面において活発であったが研究面特に大学院生の指導、欧文論文の掲載に関してかなり低迷していた。まず3年間かけて学位研究の指導できるスタッフを育成した。また大学院生には研究目的をしっかり持っており、かつ掲載論文のあるものを入学させ、毎週厳しい面談を行った。成果は5年目から軌道に乗り出し、米国麻酔学会の発表、論文掲載も飛躍的に増加した。

 教授時代ー中期(就任7?14年):10年目を迎えようとした時に、日本麻酔学会の会長出馬の話があった。この時2つの意見が寄せられた。1つは就任して10年になり、実力、業績も十分に上げているので立つべきだ。もう1つは就任して10年であり、年齢的に相応しい先輩達がいるのに立つのはどうかという意見であった。「ので」と「のに」の違いに深い意味を感じた。当時旭川医大内科教授の兄に相談したところ会長選に出ることを勧められた。その理由は「学会を開催することで教室員に学会での活躍の場を与えられること、教室の充実、発展に結びつくことなどその成果は大きい」からであった。またその時「教授として活躍し、教室が活性化、発展していくに連れ、必ず周囲からのねたみ、ひがみがあるので自分だけでなく、教室員にも謙虚な態度や気配りを忘れないように注意することだ」と忠告してくれた。日本麻酔科学会第46回大会は教室のマンパワーと教室員達の真摯な努力により大成功のうち終了した。また当大会のテーマから2冊の本を刊行した。その後も開催する学会毎に教室員を執筆者とする本を発行することにした。

 教授時代ー後期(就任14?22年):この時期は対外的立場での活動が多く、またこれまでの仕事が評価された。2002年札幌医科大学医学部付属病院長に就任した。新5カ年経営改善計画の実施、病院の理念、基本方針の制定、DPC導入、日本病院機能評価機構の認定、緩和ケアチーム開設など行った。ただ遺憾なことは名義借し問題で処分を受けたことであった。好意が仇になった。2004年に札幌医科大学学生部長に再度就任した。課題であった大学祭の日程を学生会との話し合いで変更、大学祭時の飲酒で問題を起こした運動部に1年間活動停止処分、学生会との話し合いで飲酒場所、時間を設定した。学生会、運動部サークル協会に対して飲酒のあり方を指導する一方で各教授に対して部活動への積極的参加を呼び掛けた。大学首脳部や教授達は学生の活動に対して安易に保身的に禁止や処分をするのでなく、その原因、本質をよく考え、話し合い、指導していく、そして学生達と共感し合う姿勢が教育者として大切である。私は野球部、スケート部の両部長をしてきたがスケート部は病理学の佐藤教授に、野球部は法医学の松本教授に譲った。特に野球部長は定年までの14年間担い、部員達にかなり厳しく接してきた。退任後直ぐに東医体で優勝した。冷酒と親の説教は後で効いてくるとのたとえ通りである。学生から優勝時の記念ボールが贈られた時、感動した。このような経験を多くの教授に味わってもらいたい。

 2007年日本麻酔科学会理事長に就任した。会員はもとより医学医療界、一般社会のニーズに適切に対応することを基本方針に活動した。2008年国のがん医療政策に対して当大学は迅速に対応し、その一環として緩和医療の面での改革、強化を図った。私は腫瘍センターの緩和ケア管理室長、麻酔学講座大学院に緩和医療学が新設され、その指導教授、寄附講座緩和医療学の兼務教授になった。また「がん疼痛の機序と鎮痛戦略としての治療法および管理体制の確立と普及への貢献」で平成19年度北海道科学技術賞を受賞した。

 おわりに、私は当大学麻酔学講座の教授として22年間主宰し、大学の病院長、学生部長そして日本麻酔科学会の会長、理事長としてその立場と役割を果してきた。そうゆう経緯のなかで最近つくづく思うことは人生での出会いをどのように価値ある思い出に作り上げていくかは自分の努力と責任であると言うことである。札幌医大同窓会の皆さんのご多幸と、会のご発展を祈っております。