研究成果

全体の成果要約

新石器時代農耕開始期以前の東南アジア人はどの遺跡の集団も例外なくベッダ・アンダマン・メラネシア・オーストラリア先住民と同様にユーラシア南回りで移住してきた新人の系譜であることが示唆され、北東アジア人の系譜に属する新石器時代以降の農耕集団とは大きく異なることが明確となりました。ベトナムの6、7千年前のConCoNgua遺跡やBauDu遺跡はその代表であることが示された。またスマトラのGuaHarimau遺跡は、同一遺跡内の先史の時間軸のなかで、系譜の異にする居住集団の二層構造が明瞭であり、台湾由来のオーストロネシア語族による居住集団の置換を明瞭に示す重要遺跡として位置づけらました。斎藤と徳永は3地域のネグリトのゲノム規模のSNP解析をおこない、系統ネットワーク分析をおおこないました。いずれも他のアジア人から相当に古くに分岐し、多少の共通性を残しながら独自分化をとげたことが示唆されました。また東南アジア同様に日本列島に至るまでヒトの二層構造が存在することをゲノム解析から検証しそのことが証明されました。古人骨mtDNAを担当する篠田は、沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴の旧石器人のゲノム抽出に成功し、東南アジア由来のハプロタイプをみいだしています。ベトナムのConCoNgua遺跡人骨の解析を試みましたが残念ながら不成功におわりました。また上記GuaHarimau遺跡人骨については抽出に成功し台湾オーストロネシア語族との共通性を検出し形態学の所見を裏付けています。山形はベトナム中部のHoaDiem遺跡の形質人類学的分析と考古遺物の分析を比較対照しながら、紀元前後の数世紀までに島嶼的な特徴を持つ集団が当該地域に移住していたこと、彼らがフィリピンと同型式の土器を持っていたことを明らかにしました。またベトナムの広域から台湾産の可能性のあるネフライト製の遺物を発見し、さらには南部のトーチュー島の遺跡からHoaDiem遺跡と同様のオーストロネシア語族関係の文化遺物を発見し、古代の海洋ネットワーク交流の実態がベトナムでもより広範囲であったことを明らかにしています。印東は新石器文化集団のオセアニア島嶼域への拡散の再検討と拡散戦略としての島嶼間接触の実態について検討した。ミクロネシア・ファイス島の発掘資料の分析から、初期移住者は南方から家畜をもちこみ、西方からネズミと土器などを持ち込むというパターンで一貫した島嶼間の資源移動があった証拠を発見し、考古学的証拠から復元された人間移動の実態は、言語研究が示す人間の移動史とは異なり、複数の島との継続的な接触を持っていたことを明らかにしました。
以上の成果の一部は英文図書として公表しています。(無料ダウンロード先 図書の項目参照)

先史人類形態学(松村 博文)

ユーラシア東部の現生人類の拡散移住の問題は、完新世の段階では農耕の拡散にともなう人の移動と大きく関わってくる。中国や東南アジア各地において先住狩猟民と農耕民が連続しているのか、あるいは日本の縄文弥生移行期のように集団の混血や交替が生じたのか、という疑問に答えることはこれらの地域の人類史を理解するための核心ともいえよう。この課題に取り組むため、現在、中国、ベトナム、タイ、インドネシアでの発掘調査を含む6つのプロジェクトに着手し実行してきた。その過程で東ユーラシア二層構造モデルの検証のため、北東アジアから東南アジアの広範囲におよぶ地域の先史人骨と現代人あわせて約7000人分の形態学的データを収集し、種々の統計学的分析により東ユーラシア地域の集団の系譜関係を明らかにしている。現代の東南アジア人が大きな多様性を、北東アジア人が均質性を示すことは、遺伝学と同様に形態においても示された。多様性は起源の古さを、均質性は分岐が新しいとの解釈は、北東アジア人が東南アジア人の北上により由来したとする仮説の根拠となっている。しかしこのシナリオは、先史人骨の形態データを含めて分析すると異なった見方ができる。東南アジア人の多様性の増大は新石器時代が転換期となっており、その要因に形態を大きく異にする北東アジア系集団の南下の影響が極めて大きいことが示唆される。サフールとアメリカも含めた形態データからは、脱アフリカ現生人類のユーラシア東部への移住には南北2系統のルートがあった可能性も浮かび上がる。
  • 地図(仮説検証のための先史人骨調査)
  • 写真(Gua Harimau遺跡)
  • 図(頭骨計測16項目 Q-mode 相関による Net Split)
  • 図(21形質の頻度データより Smith MMD 距離を計算 近隣結合法による無根系統樹)
頭骨と歯の分析の結果は二層構造モデルを明確に支持しており、以下のような結論ないし示唆が導かれる。
  1. 農耕拡散前の東南アジア人はベッダ・アンダマン・メラネシア・オーストラリア先住民と共通祖先である。
  2. インド・サフル系とされるこれらの人々はユーラシア南回りで移住してきた新人の系譜である。
  3. 1万7千年前の沖縄の港川人も同系統である。
  4. 縄文人もこれらと共通した特徴が多く、同じ系譜と考えられる。ただし、北東アジアからの影響も多少ある(南北混血)。
  5. 北東アジア人は上記とは系譜の異なる新人集団であり、脱アフリカ後ユーラシア北部を横断してきた可能性がある。
  6. 北東アジア人はもともと細石器文化を担っていたが、中国を南下する過程で農耕技術を発展させ、さらにその一部のグループはーストロアジア語族、オーストロネシア語族とて農耕の拡散にともない、中国南部や台湾から移住した。新石器時代後半(3800年前)が最初の移住開始期であり、規模の大きな移住は初期金属器時代(2000年前)まで続き各地での国家形成にも関わったとみられる。
  7. 日本列島に展開した弥生文化はもう少し新しく、約3000年前ですが、渡来人の形質も似通っており大局的には東南アジアに拡散した農耕民とどこかで遺伝的に関連していると思われる。
  8. 島嶼部の東南アジア人はバリエーションが大きく、集団間の結合が最もゆるい。この現象は先住のインド・サフル系ホモサピエンスと、新石器時代から起こった北東アジアのホモサピエンスの南下拡散における時間差や規模の相違を反映しているものと解釈された。

ゲノム系統解析(斎藤 成也、徳永 勝士)

東南アジアには、ネグリト (Negritos) とよばれる黒い皮膚色を有し低身長の採集狩猟民が、フィリピンのいろいろな島、マレー半島中央部、およびアンダマン諸島に分布している。百年以上前から、人類学においてはネグリトの起源が議論されてきた。1970年代には、尾本惠市らがタンパク質の違いをゲル電気泳動法を用いて調べる方法を用いて、フィリピンのネグリトおよび非ネグリト集団について詳細に研究した。その結果、ネグリトは東南アジアの中ではかなり異質な性質を持ち、さらに長いあいだの近隣集団との混血を考慮すると、場合によってはオーストラリア原住民(アボリジニー)と系統的にやや近くなるという推定結果も得られていた。
2004年にヒトゲノムの塩基配列が決定され、個人個人について膨大なゲノム規模のSNP情報を得ることが可能になった。かつては集団を単位とした解析しかできなかったが、個人個人を単位とした解析も可能になったのである。徳永勝士も参加したアジアの多数人類集団におけるゲノム全体で5万カ所の遺伝的変異(SNP;単一塩基多型)を決定した国際研究グループのデータのうち、マレーシアを中心とした東南アジア集団のデータを、斎藤研究室のTimothy Jinamが再解析した。その結果は2012年に論文として発表した。図1は比較した主要な人類集団の居住地を示している。
図2はSNPデータをもとにして、斎藤成也と根井正利が開発した近隣結合法で作成したこれら東南アジア集団の遺伝的近縁図である。図2の番号は図1の集団の番号に対応している。図2からは、フィリピンのネグリト(25)が、同じフィリピンの他の集団(28)とはかなり遺伝的に異なっており、むしろインドネシア東部のアロレス島人(14)やさらに東に位置するメラネシア人と共通性があることを示している。一方、マレーシアのネグリト(1)は同じマレーシアの少数民族であるテムアン(2)と遺伝的な近縁性を持つことがわかる。
次に、同じくSNPデータをもとにして、今度は個人個人を単位とした解析を、多変量解析の代表的な手法である主成分分析を用いて行なった。主成分分析は、膨大なデータの多様性を、2次元平面で表現しようとするものであり、データの分散を最大に示す軸が第1主成分、それと直交する(相関がない)次に分散を最大に説明する軸が第2主成分、と続いてゆく。図3は、第1主成分と第2主成分で全体のばらつきをしめしたもの、図4は第1主成分と第3主成分で全体のばらつきをしめしたものである。図3では、左右の軸である第1主成分でメラネシア人とその他の人々が大きくわかれ、両者のあいだにアロレス島人が散在している。第2主成分はマレーシアのネグリトと他の人々が別れているが、近隣のオーストロネシア語を話すマレー人と遺伝的に近いネグリトもいる。このように、同一集団でも、おそらく近隣の集団との混血の度合いによって、個人の位置が変化しており、全体としてあたかも尾を持つ彗星のごとくにみえるので、このようなパターンをわれわれは「彗星様」とよんでいる。図4では、第2主成分のかわりに第3主成分を第1主成分と組み合わせて示したが、今度はフィリピンのネグリトが第3主成分で他集団と大きく離れており、彗星様パターンがやはりみられる。
他集団と遺伝的に大きく異なっていたマレーシアとフィリピンのネグリト、メラネシア人、およびアロレス島人のデータを除外してふたたび主成分分析を行なった。その結果が図5に示してある。こんどは、オーストロネシア語を話すさまざまな集団が環状に位置しているが、そのなかでも図2でマレーシアのネグリトと遺伝的に近縁だったテムアン(水色の四角形)集団が彗星様パターンをしめしている。ボルネオ島の少数民族であるビダヨ(黒色の三角形)も、じゃっかんながら彗星様パターンをしめしている。また、図の右上に位置する台湾の原住民(深緑色の四角形)からななめ左下にむかって、フィリピン人、メンタワイ人、スラウェシ島人、マレー人、ジャワ島人と続いている。このパターンは、言語学、考古学、遺伝学のデータが共通して示している台湾からの人間の移動を示唆するものである。
図6右の(B)は、この台湾からの人々の移動を示したものだ。いろいろな研究結果から、およそ7000年から5000年前にこの移動が生じたとされている。さらにこれらの人々の子孫によって、3000年ほど前にポリネシアへの大航海がはじまる。図6左の(A)は、われわれがあたらしく提案したもっと古い3万年〜1万年前の時代の、現在の中国南部からの人類の移動経路であり、これを"early train"モデルと名付けた。主としてミトコンドリアDNAの配列解析結果から示唆されたものである。ネグリト人の祖先が東南アジアに現代人の故地アフリカから移動してきたのは、さらに古く、5万年〜3万年前ではないかと考えられている。
ミトコンドリアDNAの塩基配列データを、合祖過程理論を用いて解析すると、過去の人間集団の人口変動を予測する事が可能である。図7は、われわれが決定したマレーシア人86個体のミトコンドリアDNA全配列(およそ16500塩基)のデータを用いて、過去5万年間のマレーシアにおける人類集団の人口変動を推定した結果である。興味深いことに、1万年前ごろから人口が減少し、ごく最近になって増加に転じている。この減少は、最終氷期がおわって海水面が上昇し、スンダランドとよばれていた巨大な半島が縮小した結果、当時まだ採集狩猟民だった人々の居住域が狭くなったためかもしれない。
以上、図1〜図7は、すべて 斎藤成也研究室が中心となって発表したJinam et al. (2012)の論文からの引用である。
我々は、3地域のネグリトのゲノム規模SNP座位を5万から約100万に大幅に増加させ、さらに解析を進めることにした。フィリピンのネグリトのDNAサンプルについては尾本惠市(東京大学名誉教授)が中心となって1970〜1980年代に収集したものの一部を用いた。図8は今回用いたフィリピンのネグリト集団の位置である。1はパンプローナ近郊のアグタ、2はパラウイ島のアグタ、3と4はアエタ、5はパラワン島のバタク、そして6はミンダナオ島北部のママヌワである。ゲノム規模のSNPタイピングは徳永勝士の研究室で行なった。一方、マレーシアのネグリトについてはMaude Phipps(マレーシアのモナシュ大学教授)ら中心となって収集したものを用いた。ゲノム規模のSNPタイピングは、Mark Stoneking(ドイツのマックスプランク進化人類学研究所教授)の研究室で行なった。アンダマン諸島のネグリトについてはPartha Majumder(インドの国立ゲノム医科学研究所所長)らがタイピングしたしたものを用いた。全体の分析は斎藤成也の研究室が担当した。主成分分析、系統樹分析、系統ネットワーク分析などから、これら3地域の集団はそれぞれ独自の分化をとげたが、一方で少ないながら共通性を残していることが明らかになった。現在論文を準備しているところである。

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  • 地図
    図1
  • 図(遺伝的近縁図)
    図2
  • 分布図
    図3
  • 分布図
    図4
  • 分布図
    図5
  • 移動図
    図6
  • グラフ
    図7
  • 地図
    図8

古代DNA解析(篠田 謙一)

東南アジアや東アジアの南部地域、琉球列島などに展開した古代集団の遺伝的な性格と由来を明らかにするために、沖縄県、台湾、ベトナムでの調査を行い、古代ゲノム分析に用いるサンプルを収集、分析を進めている。

(1)白保竿根田原洞穴遺跡出土人骨の分析

沖縄県石垣島の新空港建設予定地にある白保竿根田原洞穴遺跡では2007年から2010年の調査で、旧石器時代(約2万年前)から下田原文化期(4千年前)までの比較的保存状態の良い人骨が出土した。発掘調査はその後も続けられており、2014年度までに更に2万年を遡る時代の人骨が多数得られている。国立科学博物館と山梨大学の共同チームは、これらの人骨からDNAを抽出し、先島諸島に最初に到達した集団の遺伝的な性格の解明を続けている。現在までの解析で、2万年を越える年代の人骨は東南アジアに起源を持つミトコンドリアDNAを持つこと、下田原期には現在の沖縄に多く見られるタイプが出現していることが明らかとなっている。また核ゲノムの解析も行い、一体は女性であることも判明した。

(2)台湾先住民のDNA研究

言語学や考古学の証拠から、台湾はオセアニアへの拡散を行うオーストロネシア語を話す人々の源郷地であると考えられており、先住民の遺伝的な特徴についても多くの研究が行われている。しかしながらその多くは現在もオーストロネシア語を話す山岳集団を対象としており、同じ先住民の系統をひきながら平野部に居住し、清朝支配期以降に漢化が進んだと考えられている平埔族についてはほとんど研究がない。そこで本研究では台湾大学医学部が所蔵する17-18世紀の平埔族二集団の人骨からDNAを抽出して、ミトコンドリアDNAの分析を行い、中国南部集団との近縁性を確認した。また台湾大学との共同研究で核ゲノム分析を実施し、更に詳細な遺伝的特徴を調査している。

(3)ベトナム、コンコンガ遺跡出土人骨のDNA分析

更に中国南部から東南アジアに展開した稲作農耕民の移動を調べる目的で、ベトナム考古院の所蔵するコンコンガ遺跡出土人骨を調査することにした。2014年度にサンプリングの為の予備的な調査を行っている。
  • 写真
  • 図
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オセアニア考古学(印東 道子)

 オセアニアの海域世界への現生人類の拡散移住史は、大きく分けて二つの時期に行われたことが、これまでの研究で明らかにされている(印東(編)『人類大移動』朝日選書、印東(編)『人類の移動誌』臨川書店)。本研究では、第二の新石器文化集団のオセアニア島嶼域への拡散の再検討と拡散戦略としての島嶼間接触の実態について検討した。
これまで最初に拡散したのは赤道以南へと移動したラピタ土器集団であったとされてきたが、赤道以北、すなわちミクロネシア西部のマリアナ諸島やパラオ諸島への拡散も同時期、あるいはそれ以前に行われた可能性を検討した。マリアナ諸島への人間居住は今から3500年前ごろに行われた可能性がA.Spoher (1957)以来、指摘されてきたが、年代測定値の信頼性が低かったため曖昧なままであった。近年、グアム、サイパン、テニアンで行われた発掘によって、3500年前には確実にマリアナ諸島に人間が居住していたことが確認された(Hung et al. 2012)。他方で、花粉分析研究からはさらに古く4500BPをさかのぼる頃から人間居住の可能性が示唆されているが、考古学データとのギャップは埋まっていない(印東2014)。
マリアナ諸島への拡散元は、言語がもっとも近いフィリピンのルソン島北部であると考えられているが、風向きや海流データからはこの可能性は非常に低い(Fitzpatrick and Callaghan 2013)。遺伝研究からはインドネシア島嶼あるいはニューギニア島嶼からの影響も示唆されているため、南からの漂着が、まずあったと考える方が自然である。その後、マリアナからフィリピンへの航海は楽に行えるため、何らかの形の文化的交流が行われ、言語や土器などの文化的近縁関係を持つに至ったものと考えられる。
マリアナ諸島初期の非常に薄手の土器に施されたスタンプ文様や沈線文様から、ラピタ土器との関係を指摘する研究者もいるが(Bellwood 2011、Carson et al. 2013など)、むしろフィリピンに両土器文化の粗型を求めることで両地域の類似土器を説明することができる。次に検討したのは、島嶼間交流の重要性である。メラネシアへの初期移住者にとって母集団との交流を保つことが重要な拡散戦略であったことが、ラピタ遺跡間の黒曜石の移動などで知られている。同じことをミクロネシア・ファイス島で行った発掘資料の分析から検討した結果、島嶼間の物資の移動を示す証拠が多く認められた。初期移住者は南方から家畜をもちこみ、西方からネズミと土器、石などを持ち込んでいた。西方からの土器移入は1800年にわたって継続的に行われ、拡散初期以後は島嶼間交流がなくなるメラネシアとは異なり、一貫した島嶼間の資源移動が行われたことが示された(Intoh 2014)。考古学的証拠から復元された人間移動の実態は、言語研究が示す人間の移動史とは異なっており、複数の島との継続的な接触を持っていたことが明らかになった。
  • 写真
参考文献
  • Bellwood, P. (2011) Holocene population history in the Pacific region as a model for worldwide food producer dispersals. Current Anthropology 52: S363-S378.
  • Carson, M.T., Hung, H.-c., Summerhayes, G. and Bellwood, P. (2013) The pottery trail from Southeast Asia to Remote Oceania. Journal of Island and Coastal Archaeology 8: 17-36.
  • Fitzpatrick, S.M. and Callaghan, R.T. (2013) Estimating trajectories of colonisation to the Mariana Islands, western Pacific. Antiqiuty 87: 840-853.
  • Hung, H.-c., Carson, M.T. and Bellwood, P. (2012) Earliest settlement in the Marianas: A response. Antiquity 86: 910-914.
  • 印東道子 (2014) 「ミクロネシアにおける古環境研究と人間居住」高宮広土・新里貴之(編)『琉球列島先史・原史時代における環境と文化の変遷に関する実証的研究』第2集 pp. 211-224  六一書房
  • Intoh M. (2014) Can we distinguish 'human migration' from 'cultural contacts'?: A discussion on the western Micronesian case, 20'th Indo Pacific Prehistory Association Congress, Siem Reap, Cambodia.
  • Spoehr, A. (1957) Marianas Prehistory: Archaeological Survey and Excavations on Saipan, Tinian and Rota. Chicago Natural History Museum, Chicago.
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東南アジア考古学(山形 眞理子)

東南アジアにおける海洋民の交流:ベトナム・フィリピン・タイ・マレーシア

ベルウッドらの仮説によれば前1500年から前500年までのある時期、オーストロネシア語族集団が東南アジア島嶼部からベトナム中部に移住したとするシナリオが描かれている(Bellwood 1997)。現在のベトナムの少数民族となっているチャム族は、東南アジア大陸部でオーストロネシア語族に属する言語を話す唯一のグループであり、先史時代に東南アジア島嶼部から到来した海洋民の子孫と考えられている。この仮説によれば、鉄器時代のベトナム中部に拡散したサーフィン文化の担い手も、オーストロネシア語を話す人々であったとされる。考古学的には、サーフィン文化と類型の耳飾りの出土地域がフィリピン、ボルネオ、マレー半島に及んでいることや、サーフィン文化のものと酷似する甕棺がフィリピンから発見されていることなどが注目されている(深山2014、田中2010)。ベトナム中部の先史時代考古学は、島嶼部とつながる海洋のネットワークの存在や、海を介した人の移住や往来と密接に関係している。
一次資料を得るため、山形らはこれまでにベトナム中部・カインホア省ホアジェム(Hòa Diêm)遺跡の発掘をおこなってきた(図1)。ホアジェム遺跡はベトナム中部カインホア省カムラン市に位置する(11°53′15″N, 109°06′34″E)。甕棺墓をもつ鉄器時代の埋葬と、貝層を伴う居住の跡が複合する遺跡である。多くの甕棺の中に人骨が遺残しており、先史人骨の資料が極端に少ないベトナム中部において貴重な遺跡となっている。山形とブイ・チー・ホアン(南部社会学院考古学研究センター)は、出土土器がサーフィンではなく、フィリピン中部マスバテ島カラナイ洞穴で出土した土器(Solheim 1957, 2002)に酷似することに気づいた。ひとつの甕棺墓に複数遺体が合葬された例が確認され、甕棺への埋葬方法の問題も含め、その特異な葬制が関心を集めている。出土した甕棺墓計23基のうち、16基が球形甕を利用していた(図2)。そして、同じく23基のうち16基に、いわゆるカラナイ系土器の副葬がみいだされている。ソルハイムが称したカラナイ土器コンプレックス土器群の中に、全く同型式の土器が認められる(図3) (Solheim 1957, 2002)。これらの土器は在地で製作された土器ではあるが、明らかにカラナイ土器コンプレックスに属するものである。
  • 図
    図1 ホアジェム遺跡と関連遺跡地図(筆者作図)

    楕円で囲まれた部分はサーフィン文化のおおよその範囲 1.ライギ・ハウサー・アンバン・ゴーマーヴォイ 2. サーフィン・ロンタイン 3. ホアジェム 4. ゾンカーヴォ 5. サムイ島 6. カオサムケーオ 7. タボン 8. カラナイ 9. ドンソン

1964年にソルハイムが指摘した長距離を隔てた土器の類似、すなわちフィリピンのカラナイ洞穴とタイ南部サムイ島近郊の小島出土土器が酷似するという、当時の考古学者を驚かせた長距離海上ネットワークの中間地点でホアジェムが発見され、このネットワークの存在に再び学界の関心を引き付ている。ホアジェム遺跡の報告書は、Yamagata et al. (eds.) 2013として刊行された。
  • 写真
    図2 ホアジェム遺跡の球形甕棺

    2007年H1M8号墓、最大径68.8cm (筆者撮影)

  • 図
    図3 カラナイ(7-9)、ホアジェム(4-6)、サムイ(1-2)の土器

    1-3, 7-9 Solheim 1964より転載、4-6 Yamagata (eds.) 2013より転載

東南アジアにおける海洋民の交流:形質人類学の視点から

人骨そのものの形質人類学的特徴からも、ホアジェム集団の系譜について興味深い情報を得ることができた。図4は研究代表者の松村博文によるもので、頭蓋骨の計測値16項目にもとづくQモード相関係数を頭骨の類似尺度とみなし、Net Split法でネットワーク系統図を描いたものである。類似の強い集団同士でクラスターが示され、遺伝的関係が強いほど結線が密集する。その結果、新石器時代から鉄器時代の東南アジア集団は左上方にクラスターをなし、北東アジア人や漢民族などのモンゴロイド系集団との混血の影響が示唆されている。島嶼部の東南アジア人は、北東アジア・クラスターとサフールホアビニアン・クラスターの中間に散布している。セレベス、ジャワ、スマトラ、ブヌン、ネグリト、フィリピン、ダヤクなど現代人のグループである。それぞれが北東アジア由来の集団と、後期更新世のスンダランド由来の集団との混血の度合いを反映していると考えられる。この図の中で位置づけられているホアジェム遺跡の2例は、球形甕棺に納められた成人男性人骨(AMS年代が90calAD -102calAD(2.2%), 123cal AD-243calAD (93.2%))と、200mほど離れた別地点の試掘で出土した伸展葬人骨(AMS年代が200calBC-49calBC(95.4%))の頭骨である。両者に大きな差異はなく、どちらも現代の東南アジア島嶼部の人々と良く類似している。ただしこの図からホアジェムの人々がどこから来たかを、ピンポイントで特定することは困難である。オーストロネシア語族に属する東南アジア島嶼部の人々は人類学的には同系統の集団とみなされるので、移動のルートはどのようにでもとれるからである。その由来が台湾であってもフィリピンであっても、スマトラ方面であったとしても、矛盾はない。
カラナイ土器などの遺物はフィリピン方面と往来した集団がいたことを示唆し、骨の分析からも彼らが島嶼部東南アジア人と近縁であることが示された。上記二例の埋葬は前2世紀から後3世紀の幅におさまっている。オーストロネシア語族集団の大陸部への最初の移住と結びつけるには新しすぎる年代であるが、鉄器時代から初期国家の時代への移行のころ、島嶼的な形質的特徴をもつ人々がホアジェムにいたことは確かである。
  • 図
    図4

    頭骨計測データ16項目から算出したQモード相関係数にもとづく集団間の無根ネットワーク樹状図(松村博文 作製)

「サーフィン-カラナイ」と海域ネットワーク研究の課題

ソルハイムが1960年代に提起した「サーフィン-カラナイ土器伝統」という概念について、詳しく論じたことがある(山形2010b)。もともとソルハイムが意図していたのは土器研究にとって有効な概念としての土器伝統ではなく、その背後に見える人の移動あるいは交流、とくに海を舞台とした航海交易民ヌーサンタオ(Nusantao)ネットワークの広がりを示すものとしての土器伝統であった(Solheim 1964, 2006)。しかしサーフィン文化の土器とカラナイ土器コンプレックスをひとまとめにすることには、僅かな共通点しかみられない土器から支持することは困難である。両土器群の違いのほうが顕著だからである。ホアジェム遺跡の土器群が知られたことによって、ベトナム側でカラナイに結び付けられるべきはサーフィンではなく、ホアジェムであることが明らかになった。サーフィン文化が後100年ころまでに終息した一方、カラナイ土器コンプレックスの年代は後2、3世紀に下る可能性が高い。興味深いことに「サーフィン-カラナイ関連土器」(調査者の用語)がここ数年のタイ南部の調査で次々に発見されていることがわかった。現在までにクラ地峡周辺で、以下に名前を挙げる10遺跡で当該土器の存在が確認されている。Khao Sam Kaeo、Tha Chana、Tham Phu Khao Thong、Tham Tuay、Tham Ma Ngaen、Tham Pramong、Ko Din、Khao Lak、Khao Krim、Tham Ta Khuan。半島の東岸から半島内陸部にかけて分布しており、洞穴遺跡もある。カラナイ土器コンプレックスに属する土器は、フィリピンではパラワン島のタボン洞穴遺跡群ササック(Sasak)洞穴でその破片が出土している(Fox 1970)。ベトナム南部にも、カラナイやホアジェムで出土した浅鉢と類似する資料が存在することは確かである。本研究により、東南アジア島嶼部の海のネットワークを具体的に論じることのできる考古学的データが蓄積されたといえよう。
参考文献
  • 田中和彦 2010「フィリピンの先史時代」菊池誠一・阿部百合子編『海の道と考古学-インドシナ半島から日本へ』: 66-90,東京,高志書院
  • 深山絵実梨 2014「先史時代東南アジアにおける耳飾と地域社会—3つの突起を持つ石製耳飾の製作体系復元—」『古代』第135号:43-65.
  • Bellwood, P. 1997. Prehistory of the Indo-Malaysian Archipelago (Revised edition). University of Hawaii Press, Honolulu.
  • Fox, R.B. 1970. The Tabon Caves. Monograph of the National Museum No.1, Manila.
  • Matsumura, H. 2013. Human skeletal remains from the Hoa Diem site. In: Yamagata, M., Bùi, C.H., Nguyễn K.D. (Eds.) The Excavation of Hoa Diem in Central Vietnam. Showa Women’s University Institute of International Culture Bulletin 17. Showa Women’s University Institute of International Culture, Tokyo, 193-210.
  • Solheim, W. 1957. The Kalanay pottery complex in the Philippines. Artibus Asiae Vol. XX, 4, 279-288.
  • Solheim, W. 1964. Further relationships of the Sa-Huỳnh-Kalanay Pottery Tradition. Asian Perspectives 8(1), 196-211.
  • Solheim, W. 2002. Archaeology of Central Philippines (revised edition). University of the Philippines, Diliman. (First edition was published in 1964)
  • Solheim, W. 2006. Archaeology and Culture in Southeast Asia: Unravelling the Nusantao. The University of the Philippines Press, Quezon City.
  • Yamagata, M., Bùi, C.H., Nguyễn K.D. (Eds.) 2013. The Excavation of Hoa Diem in Central Vietnam. Showa Women’s University Institute of International Culture Bulletin 17. Showa Women’s University Institute of International Culture, Tokyo.
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