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標本館だより


 第53号(2025年 4月発行)

医学教育と医療技術の発展を支える献体
〜 標本館とサージカルトレーニングの役割 ~

標本館運営委員 永石 歓和
札幌医科大学 医学部 解剖学第二講座 教授

はじめに
  札幌医科大学の標本館は、1950年の小さな標本室の始まり以来、医学教育の礎として長年にわたり重要な役割を果たしてきました。本館に展示されている5万点を超える貴重な標本や資料は、医療者を目指す学生や既に最前線で活躍する医療者にとって、人体の構造を深く理解する教材であるとともに、医療の発展の歴史や、医療者としての深い倫理観を学ぶ場としても大きな意義を持っています。一方で、近年では外科的手術手技の向上を目的としたサージカルトレーニングが盛んに行われるようになり、本学でもこれまでに数多くの外科系医師が研鑽を積んできました。こちらもまた、献体された方々の尊いご厚意によって成り立っています。「無言の師」となられたご献体をお預かりし、医学教育の充実や医療技術の発展に繋げる重責を担う解剖学講座教員として、あらためて身の引き締まる思いで本稿の執筆に臨んでいます。
 標本館の歴史や献体に関する技術的発展、サージカルトレーニングにおける能動的学び、さらに実際に標本館を見学した学修者の視点や意識の変化から見える標本館の役割、さらに今後の展望について触れたいと思います。

新規技術がもたらす標本収蔵法や献体利用法の発展
 札幌医科大学標本館は、1972年にそれまでの標本室から現在の展示室の原点となる「標本館」として正式に発足しました。収蔵されている標本は、半世紀以上にわたり組織実習室の片隅から解剖学実習室へ、次いで旧大学本部棟3階、さらに現在の基礎医学研究棟8階へと、その場所を何度も変えながら大切に受け継がれてきました。従来の解剖学関係の標本に加えて、病理学、法医学標本が展示され、特に菊地浩吉名誉教授のご尽力により病理学標本が多数展示されるようになったことも、標本館の発展に大きく寄与しています。
1996年には、人体組織の水分を除去し代わりに樹脂を浸透させることにより作られるシリコン含浸標本(プラスティネーション)製作も開始され、展示方法の進化・発展も遂げてきました。プラスティネーションは、ホルマリンなどの防腐液に浸漬する従来の解剖標本と異なり、無臭で空気中で半永久的に保存することができる画期的な技術として開発されました。日本の博物館が人体のプラスティネーション標本を初めて展示したのが1995年東京大学総合研究博物館、国立科学博物館等でしたので、当時本学での技術導入がいかに早かったかが伺えます。1980年にWHOが世界根絶宣言を行った天然痘などの疾患を学ぶ上でも、貴重な技術革新であったことがわかります。
 遺体固定法の技術的進化は、献体を用いたサージカルトレーニングにおいてもその臨床的意義を飛躍的に向上させました。サージカルトレーニングは、医療安全の見地から外科医の修練法の一つとして行われています。わが国では、2012年に臨床医学の教育および研究における死体解剖のガイドラインが制定され、献体を用いた手術手技研修が本格的に開始されました。本学でも先駆的に取り組んできましたが、大きな飛躍につながったのが新たな遺体固定法であるThiel法です。1992年にオーストリアのW.Thielによって開発された方法で、この固定液の特徴は,ホルマリン含有量が3%程度と従来のホルマリン固定液10%よりも低く抑えられていること,プロピレングリコール,亜硫酸ナトリウムといった食品添加物が含まれていることです。これらの技術的工夫により、従来のホルマリン固定法とは異なり固定後の組織の硬化が抑えられ、柔らかさと可動性を維持することができます。また、未固定凍結遺体と比較して、既知の病原菌・ウイルスによる感染のリスクが少ないと言われています。Thiel法固定遺体は、本来の実臨床における術式に即して研修が行える点で有用性が高いと評価されています。その特性を活かし、整形外科領域や腹部外科、産婦人科、頭頚部領域等、幅広い領域で臨床医の外科手技修練や臨床解剖教育・研究に貢献しています。本学では、各臨床講座のご尽力により年間15~20回程度のサージカルトレーニングが開催され、全国から多くの臨床医が参加しています。ここでは、高度な医療技術の修練や生体では実現できない深い臨床解剖学的知見の修得に貢献しています。

標本館見学から学ぶ
 本学標本館は、コロナ禍で活動制限を余儀なくされた2020年度を除き、毎年1800~2800名程度の学内外の利用者を受け入れてきました。今日に至るまで、多くの医学生や医療者目指す学生が学ぶ場として利用されています。標本館の役割は、単に人体の構造の理解の促進にとどまらず、過去の医学の進歩や医療技術の発展の歴史の学び、さらに医療に携わる者としての深い倫理観の醸成にもあります。
標本の中には、見学者に大きなインパクトを与える稀少な病理標本や特殊な解剖構造を示すものもあり、貴重な学術的価値を有しています。これらの標本は、教科書や映像だけでは得られないリアルな医学知識を身につける上で大きな役割を果たします。標本一つひとつには、その成り立ちや情報が詳細に提示されており、かつての医療環境の中で助けられなかった命を献体として提供された方々の想いが重く伝わってきます。見学者は、標本を通じて医学の発展に寄与した多くの方々の篤志を学び、自身の学びが将来の医療に貢献することを実感しています。
 本学に入学した学生の半数以上は、入学前にオープンキャンパス等で標本館を見学しています。その際に、初めて見る標本に驚きや畏敬の念を抱く学生が多くいます。しかし、その時点ではまだ医学を学ぶ意識が芽生えたばかりであり、多くの学生は標本を通じて何を学ぶべきかを深く考えるには至っていません。医学部では、入学後約8か月が経過した後、医学概論の実習一環として再び標本館を訪れます。この頃には、学生たちは医学教育の中で「解剖学」と向き合う準備が始まっています。標本を見る眼差しには、オープンキャンパス時とは異なる真剣さが感じられ、実際、学生のレポートには以下のような感想が見られます。「標本館で改めて人体の精緻な構造に触れ、医学の礎となる解剖学の重要性を実感した」、「献体された方々の想いを大切にし、医学を学ぶ責任を持ちたい」、「医療者としての倫理観を磨くことの大切さを再認識した」、「将来患者さんに寄り添える医療者になりたい」。このように、標本館での学びは、医学知識の習得だけでなく、医療人としての姿勢や倫理観の形成にも大きく寄与しています。
 さらに標本館は、医学生だけでなく、医学・医療の道を志す高校生や他大学の学生にも開かれた学びの場となっています。北海道内には、医療系学部を目指す多くの高校生や専門学校の学生がいますが、医療の現場を間近に見る機会は限られています。本学の標本館の見学を通じて、学生達が人体の精巧な構造や医学の奥深さに触れ、より具体的な将来像を描くことにもつながっています。見学後の感想には、「医学の世界により深い興味を持つきっかけになった」、「解剖学を学ぶことの意義を知り、医師になりたいという思いが強くなった」、などの声が寄せられています。標本館は、今後も地域医療に貢献する医療人を育成するために、大きな役割を担っていくことが求められています。

今後の展望
 医学教育・医療技術は日々進化しており、標本館もまた新しい時代に適応しながらその役割を果たしていく必要があります。医学教育においては、デジタル技術の活用が急速に進んでいます。令和6年度には、解剖学教育のさらなる充実と発展を目的に、デジタル解剖台であるアナトマージテーブルⓇが本学に導入されました。アナトマージテーブルは、実在する献体のCT・MRIデータを基に精細な3D人体モデルが実物大でデジタル構築されており、仮想的に人体を解剖することができるシステムです。臨床研修等にも活用できる多くのシミュレーション機能も搭載されています。この機器の導入にあたっては、デモ機を一時的に標本館に設置し、多くの学生や教職員に触れていただくことでその価値が評価されました。本機器のアカデミアでの設置は、本学が道内初となります。現在は、標本館と同じ基礎医学研究棟の5階のコンピューター室に設置されています(写真)。標本館での学習や実際のご献体を用いた解剖実習・手術手技修練と組み合わせることで、解剖学実習前の予習・復習における学習効果が向上するほか、臨床画像と解剖学的構造の対応をより深く理解できるなど、医学教育の新たな可能性が広がることが期待されます。
 札幌医科大学標本館は、今後も解剖学教育・研究における重要な役割を担い、未来の医療者を育成する場として貢献していきたいと思います。

 
デジタル解剖台アナトマージテーブルⓇ 
(基礎医学研究棟5階 コンピューター室北側)

 

 


 

 

 

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