Entered: [1997.05.05] Updated: [1997.06.14] E-会報 No. 38(1997年 3月)
研究室紹介

北海道大学・大学院理学研究科・生物科学専攻・行動知能学講座
伊藤 悦朗


 本講座は,平成5年の北大理学部生物学科の大学院重点化に伴い,大講座として発足致しました.もともと北大理学部にありました伝統ある動物生理学教室に,神経内分泌学・神経科学・神経化学・分子生物学のスタッフが加わり,現在,教授3名・助教授3名・助手2名の構成になっています.研究生・大学院生そして学部卒業実習生を合わせますと40名近い大所帯なのですが,理学部本館2階にある講座スペースは非常に狭く,ひしめき合いながら日夜研究に励んでおります.以下に各研究グループによる研究内容を紹介します.

『サケ科魚類の神経内分泌系の分子生物学』(浦野明央教授・安東宏徳助手)

 動物の本能行動は体内の生理状態と密接に関っています.たとえば,繁殖行動は性成熟した個体が環境の刺激を受けることによって起きます.繁殖行動を制御する中枢は,脳の視床下部にある神経分泌系です.神経分泌系は行動を支配する神経系と体内の生理状態を支配する内分泌系をつなぐ機能を果たしています.すなわち,さまざまな外的環境や体内の生理状態についての情報を統合し,行動と生理の調節を行っています.本能行動を制御するしくみについては,神経生理学的な解析が行われていますが,その分子レベルでの解析はまだほとんどなされていません.したがって,我々は本能行動の制御機構を明らかにするために,その中枢である神経分泌系に焦点をあて,サケを材料として分子生物学的な研究を行っています.

 サケの回遊行動は,大洋から自分の生まれた川に正確に戻ってくるという点で,多くの人々の興味の対象となってきました.この回遊行動の中で,母川に回帰する行動は繁殖行動としてとらえることができます.そこで,このサケの母川回帰行動を制御する分子機構を明らかにするために,神経分泌系の機能を担う神経ペプチドホルモンとその制御を受ける下垂体ホルモンの遺伝子発現について解析しています.最近になって,研究に必要な分子プローブ(神経ペプチドホルモン:生殖腺刺激ホルモン放出ホルモンGnRH,甲状腺刺激ホルモン放出ホルモンTRH,副腎皮質刺激ホルモン放出ホルモンCRF;下垂体ホルモン:生殖腺刺激ホルモンGTH,甲状腺刺激ホルモンTSH,プロオピオメラノコルチンPOMC,成長ホルモンGH,プロラクチンPRL,ソマトラクチンSL,バソトシンVT,イソトシンIT)がひととおりそろい,それらを用いて,サケの母川回帰行動においてそれらのホルモン遺伝子の発現がどのように変化しているのかを調べています.

 石狩川に回帰してきたシロザケについて,石狩川に入る前の厚田沖のサケ(海のサケ)と石狩川上流で捕獲されたサケ(川のサケ)の間で比較すると,海のサケに比べて川のサケではVT遺伝子の発現が雌においてのみ減少することがわかりました.母川回帰時のシロザケにおいて,遺伝子の発現が雌雄で異なることが明らかになり,繁殖行動の雌雄差との関連が興味深くなりました.また,やPRL,,遺伝子の発現も海のサケと川のサケで異なることもわかってきました.このような母川回帰行動にともなったホルモン遺伝子の発現の変動を解析し,データを蓄積していくことによって,母川回帰行動を制御する分子機構の全貌が明らかになるのではないかと考えています.

 また,ホルモン遺伝子の発現の変動を解析すると同時に,その制御機構の実体を明らかにするため,遺伝子の5*上流域についても調べている.種類存在するサケGnRH遺伝子(IとII)は,コーディング領域は非常によく保存されているのに対して,*上流域は大きく異なっていることがわかりました.の上流域には約1.2kbからなるトランスポゾン様の配列が存在するが,にはありません.この配列の,サケGnRH遺伝子の転写制御に関わる機能に興味がもたれます.ところが,ニューロンは数が少なく,しかも脳内に散在しています.また,産生細胞株は哺乳類では樹立されていますが,魚類では現在のところまだ樹立されていません.したがって,発現の解析系がないことが研究の大きな壁になっていますが,トランスジェニック魚を用いる等,なんとか乗り越えようと試行錯誤しています.会員の方々のお知恵,助言が頂ければ幸いです.

『ほ乳類動物の神経分化・細胞死機構の解明』(小池達郎教授・田中秀逸助手)

 当研究グループは,ほ乳類動物における神経細胞・神経回路の発達,及び細胞死機構の生化学的・分子生物学的解明を目標として研究を行っています.神経細胞の生存は神経栄養因子によって支持されており,神経栄養因子の限定的供給の為におこる競合過程の結果,多くの神経細胞が発生の過程で死んでいくと考えられています.実際,ほ乳類動物の神経系では,個体発生の初期につくられた神経細胞の約半数が細胞死を起こし脱落します.近年,この神経細胞死が,積極的な(プログラムされた)過程からなること,アポトーシスとしての特徴を持つことが示されました.更に,種々の神経細胞の病的疾患においも,この細胞死・変性プログラムが発現している可能性が示唆され,そのカスケードの解明が急務となってきました.また,神経細胞に分化した細胞が2度と分裂しない事も良く知られており,神経回路完成後の個々の神経細胞の生存維持機構も,個体に重要な意味を持つことが推測されます.我々は,これまでに,神経細胞の脱分極応答によって神経細胞死が抑制されることを明らかにし,その抑制機構での細胞内カルシウムレベルの重要性,チロシン燐酸化等のシグナリング変化を調べ,その研究成果を発表してきました.現在は,ラットの中枢・末梢神経の両細胞培養系を研究材料に,神経細胞死制御に関わる遺伝子の単離とその解析と,神経細胞死のオルガネラ,特に小胞体を介した調節機構について,主に研究を進めています.

『感覚・行動生理学研究』(高畑雅一教授・鈴木教世助教授・長山俊樹助教授)

 研究テーマは,動物行動の神経系による制御機構に関するものです.行動を,感覚の受容から中枢処理を経て運動出力制御にいたる過程としてとらえ,その神経生理学機構を調べています.本グループのスタッフは3名で,それに大学院生,研究生,卒業研究学生合わせて数名が加わります.具体的な研究テーマのいくつかを以下にご紹介します.

 脊椎動物の嗅細胞における情報変換機構(鈴木教世):動物は,空気中に存在する非常に微量で,多種類の化学物質をそれぞれ異なる匂いとして識別することができます.この機能を担うセンサーである嗅細胞では,匂い刺激が持つ化学エネルギーが嗅受容器電位の電気的エネルギーに変換され,匂いの情報としてのインパルス発生に導いています.この嗅細胞におけるエネルギー変換機構(トランスダクション機構)を,ニジマス,カエル,ラット,マウスの嗅細胞を材料に,主にパッチクランプ法などの電気生理学的手法により,比較生理学的観点から調査しています.

動物行動の階層的発現・制御の中枢シナプス機構(高畑雅一):動物は個体としてさまざまな行動を示しますが,これらは互いに独立して発現するのではなく,中枢神経系のなかで階層的に関連づけられて制御されています.これまで個々の行動(逃避,摂食,生殖行動など)の制御のメカニズムは,学習や動機付けなどによるその変容の機構とともに,分子,細胞,神経回路網のレベルで詳細に調べられていますが,個体としての適応的な行動を可能としている階層的制御の神経機構についてはほとんど調べられていません.ここでは,アメリカザリガニの姿勢制御系を実験系として,その階層制御のシナプス機構を神経生理・解剖学的手法で解析しています.

ザリガニ尾扇肢行動発現の神経ネットワーク(長山俊樹):動物はある特定の刺激に対し,さまざまな定型的応答を示します.この行動制御の基盤は,脳を中心とした中枢神経系であり,基本的構成単位であるニューロンの階層的,選択的ネットワークに依っています.感覚受容から運動制御に至る一連の情報処理・統合過程を細胞レベルで解き明かすことを目的に,比較的少数のニューロンで構成されているアメリカザリガニ中枢神経系を研究対象に,電気生理学的・形態学的・薬理学的・免疫組織化学的手法を用いながら,神経ネットワークを構成している個々の神経細胞を同定し,各神経要素の入・出力パターン,相互作用を明らかにし,それらの機能的役割の解明を目指しています.

『学習・記憶の神経機構の解明』(伊藤悦朗助教授)

 このグループでは,淡水産のカタツムリ(ヨーロッパモノアラガイ)を用いて,それに連合学習を施した際の,神経細胞での生理学的・生化学的・形態的変化を検出し解析しています.用いている手法としましては,電気生理学,カルシウム・膜電位のイメージング,免疫組織化学,それと電子顕微鏡および原子間力顕微鏡による微細構造観察などがあります.また現在では,semi-intact標本を作製し,神経細胞に人工的な変化を起こした際の行動変化の観察ができるように,その観察システムの開発を行っています.学習や記憶の研究をなるべく多方面からのアプローチによって,行動から遺伝子までの「生物学」として捕らえようと考えていますので,大学院生たちの仕事は非常にバラバラに進行しています.特に分子生物学の範囲におきましては,このモノアラガイに味覚嫌悪学習を施した際のimmediate early geneの発現や,cAMP responsive element binding proteinの発現に大変興味があり,現在一生懸命追いかけているところです.


以上のように,本講座では,多種多様な手法やアイデアそして動物を用いて神経生物学を行っています.このような我々の研究に対しまして,北海道分子生物学研究会の皆様からのご指導・ご鞭撻を賜れば幸いです.


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編集幹事:松岡 一郎 matsuoka@pharm.hokudai.ac.jp