北海道大学大学院薬学研究科 生体機能化学分野
私たちの生体機能化学研究室は,前任の上野直人先生が基生研に移られてから1年以上経った昨年春に,全く新しい陣容でスフィンゴ脂質や糖脂質の生体機能の解明をめざして再出発したばかりの新しいラボです.私は帰国するまで17年間外国で研究生活を送ってきましたが,特に最近10年はシアトルにあるワシントン大学バイオメンブラン研究所(箱守仙一郎所長)やフレッドハッチンソン癌研究所でスフィンゴ脂質の生理機能に関する研究を進めてきました.これまで比較的地味な細胞膜脂質の一つと思われていたスフィンゴ脂質もこの10年の研究で,その分解産物であるセラミドやスフィンゴシンやその誘導体のシグナル伝達における役割が注目されるようになりました.更に極く最近では,スフィンゴ脂質や糖脂質は,新たな細胞膜構造概念として注目を受けているデタージェント不溶性のミクロドメイン構造の中心的な構成成分として,そこにおけるシグナル分子の分配や輸送における重要な役割をになっていることが示唆され,ホットな研究領域になりつつあります.私たちはそこで,アメリカでの研究を日本で更に新しいレベルに発展させるべく,新しく助教授に糖脂質をこれまで研究してきた井ノ口仁一,助手に若い分子生物学者である本橋健,和田淳を迎えて研究をスタートさせました.これに大学院生7名,卒研生6名などを加えて総勢18名の陣容で頑張っております.
図 セカンドメッセンジャーあるいはセカンドアゴニストとしてのスフィンゴシン1−リン酸 こうした様々な研究のなかで私たちが今一番関心を持って集中的に研究をしているのはスフィンゴシン1−リン酸の生理機能に関してです.図に示したように,スフィンゴシン1−リン酸は一つの分子でありながら細胞内セカンドメッセンジャーとしての役割と,細胞の外から働くセカンドアゴニストとしての役割が同時に考えられているとてもユニークな脂質メディエーターであります.1991年に,私は当時進めていたスフィンゴシン誘導体の癌転移抑制の研究の過程で,それまで一般には,スフィンゴシンの代謝中間体に過ぎないとみなされていたスフィンゴシン1−リン酸がボイデンチャンバー法などによる検索で,偶然メラノーマなどある種の癌細胞の走化性運動を極めて低濃度で抑制する事実を見つけたのが本研究の開始されたきっかけでした(PNAS, 1992).それはジョージタウン大学のSpiegelらが細胞増殖の細胞内メッセンジャーとしての役割を発表したのとほぼ同じころでした.私たちは更に,ワシントン大学のRoss教授らとの共同研究で,ヒト平滑筋細胞はこの脂質に極めて感受性が高く,PDGF依存性の走化性運動に対しても抑制作用をもつことを見いだし,そのメカニズムの研究を進めてきました (JBC, 1995).更に血小板では分化の過程でスフィンゴシン1−リン酸分解酵素が欠損しそのためこの脂質が血小板に蓄積する事実に着目し,血小板における研究も同時に開始し,活性化された血小板からスフィンゴシン1−リン酸が放出され,これが細胞の外からオータコイドとして血小板活性化を亢進している事実を突きとめました(Blood, 1995).そしてこの脂質を不動化した合成ビーズや放射ラベル脂質合成を導入することにより,スフィンゴシン1−リン酸が細胞膜に存在する受容体を介して作用するという概念をいち早く提唱し(JBC, 1997),細胞膜上の結合蛋白の同定を試みてきました(Biochemistry, 1998).そして昨年になって実際にこの脂質の受容体遺伝子がいくつかのラボで同定されるに及んで,LPAと同様な細胞間メディエーターとしての役割がほぼ確立し,あらためて生理的あるいは病理的条件下におけるこの生理活性脂質の動態が広く注目されるに至っています.これに関しては私たちの研究室では現在下のようなプロジェクトが進行しています.
1. スフィンゴシン−1−リン酸受容体の機能解析
最近我々はこの1年間の研究でマウスに発現しているスフィンゴシン−1−リン酸の受容体として,これまでに知られていたEdg1, Edg2の外に新たにEdg3, Edg5,さらにはこれらと相同性を持つEdg6などの受容体蛋白をクローニングしました.そこで現在こうした受容体の機能をそれぞれの強制発現株を作製したりしながら解析を進めています.またそのシグナル伝達機構を探る目的でRho, Rac, cdc42などG蛋白質の活性化型,優勢不能変異体をメラノーマ細胞,線維芽細胞に強制発現,または微量注入をしたり,酵母ツーハイブリッド法によって受容体と連関している分子を検索したりして,この脂質の示す生物活性の細胞特異性の分子機構上の意味付けをめざします.
2. スフィンゴシン1−リン酸の細胞からの放出機構
活性化された血小板からのスフィンゴシン1−リン酸の放出機構はそのPKC依存性以外ほとんど不明なままです.そこで,現在,種々の阻害剤を使った生化学的研究とともに巨核球細胞をモデルに放出の分子機構の解明を追求しています.また血漿中に放出されたスフィンゴシン1−リン酸がどのような機序で分解消滅されるのか血漿中にはその分解酵素は存在しないため今のところ全く不明で,これも重要なテーマとなっています.
3. スフィンゴシンキナーゼの多様性と機能調節
スフィンゴシン1−リン酸は細胞内でスフィンゴシンキナーゼという酵素によって合成されます.種々の外部刺激を受けて活性化された本酵素によって一過性につくられたスフィンゴシン1−リン酸がIP3とは異なる機構でCa2+動員などを引き起こすという「スフィンゴシンキナーゼ回路(SK回路)」の存在がマスト細胞の活性化や線維芽細胞の増殖,平滑筋細胞の運動などにおいて重要な役割を果たしていると考えられています.このKey酵素の詳しい活性化機構は酵素自体の研究が遅れていたこともあり,ほとんど手つかずの状態でありました.しかし昨年になってSpiegelらによってこの酵素の精製とcDNAクローニングが成し遂げられたことにより,ようやく新しい発展の可能性が開けてきたといえます.私たちも,これまでの予備的な実験から組織特異的な本酵素の分子多様性を想定してその探索を試みております.またその活性調節機構(活性化因子の同定,阻害因子の不活性化,細胞内移行の有無など)を生化学的,分子生物学的手法で解明することによって,SK回路の担っている生理的役割を明らかにし,更にはアレルギーや動脈硬化における本酵素の有効な阻害剤の探索やSK回路の制御因子を同定し,新しい医薬開発の試みの一助としていきたいと考えて実験に取り組んでいます.
それ以外にも,本研究室では
4. スフィンゴ脂質細胞内結合タンパク質の探索
5. スフィンゴ脂質,糖脂質の細胞膜筏構造における役割
6. 糖脂質による神経細胞の分化,機能への影響
などの課題にそれぞれのグループが取り組んでいます.私自身は生化学がバックの研究をこれまで進めてきましたし,脂質は遺伝情報の直接産物ではないため,分子生物学の戦略から取り残されるきらいがありましたが,最近では上述しましたように受容体や関連酵素のクローニングが進むなど新しい発展をみせています.またそれだけでなく,脂質の研究には,ゲノム研究の枠には収まりきらない新しい戦略,方法論が必要であることは明らかで,脂質−蛋白質相関などの観点から,これまでの分子生物学に欠けていると思われる面を掘り起こし,生物学の新しい発展に貢献できたらと願っております.
7.関連総説文献
- Hakomori S. & Igarashi Y. Functional role of glycosphingolipids in cell recognition and signaling. J. Biochem. (invited review) 118 : 1091-1103, 1995.
- 五十嵐靖之 スフィンゴシン1-リン酸の生理学−細胞運動制御機能と血小板における機能的役割を中心として− 生化学69 (10) : 1166-1185, 1997.
- Igarashi Y. Functional roles of sphingosine, sphingosine 1-phosphate and methylsphingosines : in regards to membrane sphingolipid signaling pathway. (invited review) J. Biochem. 122 (6) 1080-1087, 1997.
- 五十嵐靖之 メチルスフィンゴシンの生理・薬理作用−スフィンゴ脂質シグナル伝達との関係と脂溶性薬剤導入に向けての一つのアプローチ− 蛋白質 核酸 酵素 43 : 226-236, 1998.
- Igarashi Y. Sphingosine 1-phosphate as an intercellular signaling molecule. Ann. N. Y. Acad Sci. "Sphingolipids as singaling modulators in the nervous system" 845 : 19-31, 1998.
- 矢富裕,五十嵐靖之,尾崎由基男 スフィンゴシン1-リン酸による情報伝達.蛋白質 核酸 酵素 43 (16) : 2510-2515, 1998.
- 五十嵐靖之 セカンドメッセンジャーあるいはセカンドアゴニストとしてのスフィンゴシン1-リン酸研究の新しい展開.蛋白質 核酸 酵素 44 (7) : 112-119, 1999.