Entered: [2000.04.16] Updated: [2000.09.01] E-会報 No. 48(2000年 7月)


海外レポート =留学体験記=

This is the Place!:Salt Lake City
Utah大学Huntsman癌研究所留学体験記

札幌医科大学医学部生化学第2講座

坂根 郁夫


 

 HAMB新会長の講座ということで、新事務局発足以来第一号の海外レポート執筆の白羽の矢が立ちました。筆者は、1997年9月より2000年2月までの2年半、Utah州Salt Lake City(SLC)のUtah大学Huntsman癌研究所(HCI)で幸いにも実りある留学生活を送って参りましたので、その留学体験記をお届けしたいと思います。

Utah州SLC
 「This is the Place!」は、160年ほど前、Brigham Youngというモルモン教のリーダーが迫害を逃れてこの土地(SLCの前身)へたどり着いた時叫んだとされる言葉です。ここがモルモン教の新しい町を築くべき場所だ!という意味で、町はずれの小高い丘に記念碑が建っています。当時は、Utahの名の由来のUte(山の頂に住む人の意)族インディアンの集落が点在する荒涼とした土地だったそうです。SLCは東のロッキー山脈の分嶺、Wasatch山脈と西のOquirrh山脈に挟まれる標高約千三百メートルの盆地にあり、死海と並ぶ高濃度塩水湖として知られるGreat Salt湖のほとりに開けた人口20万人程の町です。呼吸が苦しいということは勿論ないのですが、ポテトチップスの袋が風船のようにぱんぱんに張れていることで空気が希薄なのが実感できます。碁盤の目状に走る広い道路、南300東938等と表記される住所や、一年を通して平均気温は札幌より摂氏2度ほど高いものの冬は時々雪が降り(全く根雪にはならず大抵は次の日に溶けてしまいますが)、夏はからっとしていることなど、SLCは札幌から来た筆者にとって余り違和感のない所でした。札幌との類似点の一つに2002年に冬季オリンピックが開催されることも挙げられます。現在、競技施設やホテル、道路や路面電車網などを急ピッチで整備中で、あちらこちらで工事が行われています。勿論、近くに世界的に有名なPark Cityを始めとするスキーリゾートが多数あります。都市としての治安の良さは全米で1,2を争う程らしく、これは白人の敬虔なモルモン教徒が人口の多くを占めているせいだと言われています。

 物価は物によりますがおしなべて日本の半額程度だと思います。給料は最初の年に3万ドルもらい、一年毎に上げてくれました。幸い、札医大に籍を残していて給料も貰えたのでかなり楽に生活できました。贅沢しなければ3万ドルのみで夫婦二人で十分やっていけると思いますが、同僚の武富君(九州がんセンターより留学中)はいつも苦しい苦しいと言っていました。食べ物に関してはいろいろ書きたいこともありますが、長くなるのでやめておきましょう。

 SLCの周りには車で4〜8時間程度(結構飛ばしますが)で行ける気分転換に最適な国立・国定公園(そしてカジノも)が沢山あります。一度だけ土日を挟んで合計5日休んで、Las Vegas+Grand Canyon国立公園+Zion国立公園をまわってきました。また、土日の一泊旅行でArches国立公園+Canyonlands国立公園、Bryce Canyon国立公園+Capitol Reef 国立公園、Dinosaur 国定公園に行って来ました。筆者の個人的な意見ですが、この中でお奨めなのはArches国立公園(特にDelicate Arch)とBryce Canyon国立公園です。とにかくこれらは日本では(世界のどこでも?)味わえない不思議な空間です。それと、Dinosaur国定公園には発掘中の状態の恐竜の骨が沢山見ることができ、まさにそこに恐竜が居たんだと実感できます。どこかで発掘した骨を運んできて展示している博物館で見るのとは違った不思議な気分が味わえます。SLCの郊外には有名なBingham銅山があり、世界最大の露天掘りのすり鉢状の穴が見れます。人類が有史以来掘った最大の穴だそうです。中学校の教科書だかに載っていたのを見て是非一度行ってみたいと思っていた長年の念願が叶いました。

 SLCはプロバスケットボールチーム、Utah Jazzの町です。他にプロメジャーリーグのフットボール、野球やアイスホッケーチームを持たないので、必然的にジャズの応援も熱狂的になります。1998年春(留学前の1997年春も)はNBAファイナルでChicago Bullsと戦い、町を挙げての大騒ぎになったのを覚えています。研究室の朝はまず前日のJazzのゲームの論評(特にTracy嬢は熱心でした)で始まります。筆者も夫婦共々すっかりJazzファンになって帰ってきました。

Utah大学HCI
 Utah大学はSLCの東の山裾に広がる約6平方kmの広大なキャンパスの中に点在する16のカレッジ・スクール、294のビルからなる総合大学です。特にキャンパス内にゴルフ場があるのには驚きました。広過ぎて学内の移動にも車が必要でした。また、すぐ近くに37の企業が入っているリサーチパークがあります。筆者はよく知らなかったのですが、Utah大学は低温核融合や人工心臓で有名なのだそうです。グラントの獲得総額は全米の一流大学・研究所に混じり20位前後と健闘しています。筆者の興味ある生命科学分野では、その損傷が大腸癌の原因となるAPC (adenomatous polyposis coli) 遺伝子を見つけたRaymond L. White博士や、ノックアウト(KO)マウス作成技術の基礎を作ったMario R. Capecchi博士などの将来のノーベル賞候補がそれぞれHCIおよびHCIの隣のEcclesビルにおり、研究レベルは高いものがあります。

 HCI(http://www.hci.utah.edu/)はアメリカでも大手の化学工業会社の経営者、Jon M. Huntsman氏が1995年に1億5千万ドルを寄付して設立したもので、昨年春に建物も完成し本格的にスタートしました。Huntsman氏は、父親を始め何人もの肉親を癌で亡くしたので、癌を克服することの手助けをするのが自分のmissionであると考えこの研究所を世界の癌研究の中心の一つにするべく設立したそうです。臨床にも力を入れ、3〜5階は研究所ですが1〜2階はがん治療・カウンセリングルームです。日中は多数の患者さんが出入りしていて、よく場所や道を尋ねられます。

 建物の特徴(自慢)はモダンな外見もさることながら、研究室は仕切る壁が無く端から端まで(100メートル位はあります)見通せることです。そこに26台前後(数えなかったのですがこれくらいでしょう)の実験台が並びなかなかの壮観です。各研究ユニット間の交流をし易くして風通しをよくするためだそうですが、ユニットの拡大縮小も自由自在でフレキシブルなアメリカの研究体制の象徴ともいえる構造です。また、各種の研究支援施設の充実も自慢です。DNA配列決定、DNA合成、ペプチド合成、microarray、組織学的解析(in situ ハイブリダイゼーションなども含む)、蛋白質相互作用解析、フローサイトメトリー、マススペクトメトリーを行ってくれる施設や、別組織ですが隣のビルにあるKOマウス・トランスジェニックマウス作製施設など、ありとあらゆるものが揃っています。筆者もKOマウス作製施設を始めいろいろお世話になりました。勿論、大変広い動物飼育施設も地下にあります。また、器具洗浄施設は器具洗いだけではなく、オートピペットのチップの箱詰め・滅菌、あらゆる緩衝液や培地などを作製してくれます。

プレスコット研
 我々の研究室はHCI5階の南の一角を占めてます。ボスのSteve(Stephen M. Prescott)は、先のWhite博士やCapecchi博士の様な既に押しも押されもせぬ大きな名声を獲得した教授ではなく、まだ大教授になるために今売り出し中の中堅教授といったところでしょうか。昨年の9月からWhite博士の後を継いでHCIの所長になり、相当忙しくなりました。グラントはHuntsman財団からの直接のものも含めいろいろ当たっているので、研究費は溢れるほどあります。お金のことを気にせず研究できたのは幸せでした。Steveはシグナル伝達に関与する膜脂質代謝酵素の研究を長年続けてきました。彼の研究を大きく括るキーワードは「血管」からスタートしましたが、最近は「がん」へとシフトしてきています。しかし、Utah大学心臓血管研究所時代の同僚であるGuy A. ZimmermanとThomas M. McIntyreとは共同研究を続けており、共同のラボミーティングを定期的に開いています。最近の具体的な研究対象は、cyclooxigenase-2、diacylglycerol kinase(DGK)、platelet-activating factor acetylhydrolase、fatty acid-CoA ligaseなどです。多くの成果はNature、PNAS、JCB、JCI、JBCなどに掲載され、レベルは高いものがあります。教室員は、筆者が帰国直前の時点で、スタッフを含めたポスドクが8人(日本人2人)、テクニシャンが7人、大学院生が3人です。研究テーマは、Steveが押しつけるということは全くなく(少なくともポスドクには)、本人の希望を最大限に取り入れてくれます。ラボミーティングは毎週木曜日の朝8時半から1時間半行われ、二人ずつ発表します。ほぼ1ヶ月に一度のペースで回ってきます。普段はミーティング以外は基本的にほっとかれますが、データ(特に面白い場合)が出始めると、Steveが少ない暇を見つけて寄ってきたり、部屋に呼ばれてディスカッションが行われます。筆者も最後の頃は相当捕まりました。Steveは少し時間にルーズでのんびりしたところもありますが、彼は頼りになるボスだと何人もの教室員が言っていました。

 筆者も留学前からシグナリング脂質代謝酵素の研究、特にDGKについてその殆ど不明な生理機能を明らかにするべく研究を続けていました。その意味では、その頃はSteveは我々のライバルだったとも言えます。哺乳類のDGKは構造や組織分布の異なる少なくとも9種のアイソザイムから構成されていますが、他の実験生物の線虫、ショウジョウバエや植物にはこれまで1〜3種類のアイソザイムしか見いだされておらず、また、単細胞真核生物、酵母にはDGK活性すら検出されていませんでした。筆者は、この生物種間の分布と組織・時期特異的発現パターンから、DGKが高等動物特有の複雑な発生過程、がん化や神経系構築などに重要な役割を果たしているのではないかと、長い間考え確信の様なものがありました。そしてDGKの生理機能を明らかにするためには細胞レベルでの実験では自ずと限界があり、KOマウスなどの個体レベルでの解析が不可欠との思いが常々ありました。そこで、この酵素に興味を持ってくれ、且つ、分子生物学的・遺伝学的研究の支援施設が充実している所ということでSteveの研究室を選びました。

 アメリカに着いた筆者は、片っ端からDGKアイソザイムのKOマウスを作製することにし、結局6種のアイソザイムのターゲティングベクターを構築しました。来る日も来る日も、相当長いゲノムDNAの制限酵素マッピング(いい加減なマッピングをすると後で悲惨な目に遭いますので正確さを心がけ)、断片切り出しとライゲーション、ES細胞のスクリーニングに明け暮れる日々が続きました。そして、留学から1年9ヶ月後、とうとう最初のKOマウス(dアイソザイムのKO)が生まれ、その表現型を解析する運びとなりました。生まれたKOマウスは全て24時間以内に死亡するというはっきりした表現型を示し、初めてこの新生児を見た時はこれで留学の成果は挙がると大喜び(マウスには悪いですが)したのを覚えています。そして、解析の結果は、DGKdが腫瘍壊死因子(TNF)a転換酵素(TACE)活性の厳格な制御を介して、EGF受容体のリガンドの一つであるtransforming増殖因子(TGF)aの切断・遊離を調節し、哺乳動物の発生過程に重要な役割を果たしていることを示していました。TACE活性の調節機構はこの時点では全くと言っていいほど明らかになっていませんでした。DGKがEGF受容体のリガンドの切断・遊離を調節していることは筆者も含め誰も予想し得なかった意外な知見であり、両者とも互いに欠けていた大きな空白部分を埋める新規かつ重要な発見であると思われます。TACEは別名ADAM17とも呼ばれ、pro-TNFaの他にpro-TGFab-amyloid前駆体蛋白質(APP)、L-selectin等も切断する多機能酵素で最近注目を集めつつあります。TNFaは炎症性疾患やアポトーシスに、TGFaはその名の通りがん化やその維持に、b-APPはアルツハイマー病に、L-selectinは白血球のローリングや浸潤に関与するので、DGKdのこれらの疾病や生理機能における重要性はこれからどんどん認識されてゆくと思われます。

 当初の目的が達せられほっとしている間もなく、DGKdによるTACE活性制御の分子機構の解析をスタートし、また、次のアイソザイムのヘテロ接合マウスが生まれもうすぐKOマウスが得られる予定です。スティーブの研究室とは帰国後も共同研究を続けることになり忙しい日々は続きそうです。

 筆者にとってもSLCはまさに「This is the Place!」だったということでしょうか。とにかく、Steveを始めとした教室員の皆は本当に良くしてくれました。紙面の都合で一人一人に関するエピソードを書けないのは残念です。アメリカと日本の比較文化論的、比較研究システム論的な意見も多々ありますがこれも長くなりそうなので、差し挟まないようにしました。筆者の短く狭い体験を元にした本レポートが、少しでも今後留学される方々の参考になれば幸いです。

 最後に、留守の間講義や実習に穴を空けるにもかかわらず、今回の留学を許していただきました加納教授と、快くポスドクとして受け入れて下さいましたSteveに感謝します。また、妻・美代子の存在なしには楽しい留学生活も不可能だったことでしょう。この場を借りて感謝したいと思います。

 


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