Division of International Exchanges/Affairs

No. 5

Winter 2000

 今回の話題は、次のとおりです。

(1)Topics
 ・札幌医科大学が核となり北方圏交流の絆を!     
 ・学生派遣、マサチューセッツ州立大学サブインターンシップへの参画にも拡大
 ・北方医学交流事業について            
 ・海外からの表敬訪問ラッシュ
(2)国際交流レポート                     
 
・耳鼻咽喉科学講座        氷見 徹夫 教授        
 
・救急集中治療部         伊藤 靖  助手        
 
・JICA特設研修について    放射線部 藤原保男 副部長
 ・海外からの研修生を受け入れて  看護部  小笠原典子 副部長
(3)自己紹介とお国紹介                   
 
・訪問研究員           弌 順水 さん
 ・海外技術研修員         高 松 涛さん


◎●Topics●◎

■札幌医科大学が核となり北方圏交流の絆を!!

  〜開学50周年に交流大学との『札幌宣言』を準備中

 
 本学は、これまでに北方圏に住む人々の健康と福祉の発展をめざして、フィンランド、カナダ、中国、アメリカの大学と交流協定を締結し、研究交流を進めてきました。前号でもお知らせしましたが、その成果を結集するため2000年6月、開学50周年記念事業として、『北方圏医学・保健医療学に関する国際シンポジウム』を開催します。

 この機会に、これまで交流してきた大学、機関の中心的な役割を果たしてきた方々が一堂に札幌に集まることから、参集者により『21世紀の北方圏医療の発展をめざした札幌宣言』を採択することとし、現在、各大学と調整を行っています。

 この宣言は、同じ気候・風土、生活環境をもつ北方圏諸国の交流校が、共通の目標を掲げ、将来に向けて努力し、協力しあうことを約束するもので、これにより、これまで交流協定により本学と1対1の交流を行ってきた各大学が、6月に札幌で出会い、新たな一丸となったネットワークとして結ばれることとなります。

 宣言は6月24日(土)、国際シンポジウム終了後、海外から訪れる予定となっている約20人の研究者ら全員の立会いのもと、採択する予定です。                              
  

■学生派遣、マサチューセッツ州立大学サブインターンシップへの参画にも拡大

 平成11年度から、学生の海外派遣として、アルバータ大学での語学研修、カルガリー大学での臨床研修を開始しましたが、この度、平成12年4月〜5月までの2ヶ月間、マサチューセッツ州立大学への3名の学生が派遣されることが決定しました。

 学生は1ヶ月単位ずつ選択式のサブインターンシップと呼ばれるコースに参画します。実際に病院に入り、患者さんとの対応や24時間体制のローテーションに加わるなど、医療現場のスタッフの一員として実習を積むことから、医療知識はもとより、英語力、精神的なタフさが求められます。現在の5学年から8名の応募があり、1月下旬、5人の教授による厳選な選考を行い、3名(小野真樹さん、中嶋優子さん、佐々木彩実さん)が選考されました。札幌医科大学からマサチューセッツ州への第一号の皆さんが、他の海外からの学生に負けずさらに活躍してくることを期待しています。これにより学生派遣は、語学研修−臨床研修−臨床実習と一環したプログラムとして、実現することになります。いよいよ、国際交流は学生も主役になってきます。


●北方医学交流事業について

 今年度の交流研究者が続々来日しています。

 すでにフィンランド・タンペレ大学からマークス・ロータイネン助教授が1月20日〜3月4日まで耳鼻咽喉科学講座に、カナダ・カルガリー大学からジャッキー・ベリク教授が2月6日〜2月25日まで小児科学講座に、また1月23日〜4月30日まで内科学第三講座に中国医科大学から孔霊菲教授が来日し、研究を行っています。また3月4日からはカナダからノーマン・ウォン教授が来日し生化学第一講座で研究を行います。

平成12年度の北方医学交流事業に係る派遣候補者の募集が始まっています。締め切りは3月17日(金)までですので、申請を予定している教員は事務局企画課(国際・学術交流)まで様式を提出して下さい。

■海外からの表敬訪問ラッシュ

今年の2月〜3月は、海外から札幌医科大学へ訪れる方々が相次ぎました。

●エドワーズ駐日カナダ大使夫妻ほか

 2月8日(火)、レナード・エドワーズ大使、マーガレット夫人、クレエンターラ駐日大使館二等書記官が本学を訪れ、秋野学長、神保国際交流部長と懇談しました。今年度は、アルバータ州と北海道の姉妹都市20周年であることや、国際シンポジウムにカナダからの研究者が多く参画することなど、本学とカナダとの交流の深さに大使も驚かれているようで、懇談は時間を忘れさせるほどなごやかな雰囲気でした。

●黒竜江省衛生庁宋兆琴庁長ほか

 2月17日(木)、北海道と姉妹提携を結んでいる黒竜江省衛生庁宋兆琴庁長、袁宝嵐外事処長が本学を訪れました。衛生庁は、道の保健福祉部との間で保健医療に関する交流の覚書を交わしており、これまで本学においてもその覚書に基づき、本学からの研究者の派遣や本学への受入を行ってきました。この他に、黒竜江省ジャムス大学がリハビリテーション学部を設置するに当たり、本学保健医療学部に対して昨年から協力を求められているところであり、これらを基本に、今後とも黒竜江省との交流が進むことが期待されます。 

●アルバータ大学R.マクドナルド国際交流部長ほか

 2月18日(金)、アルバータ大学との国際交流の窓口となっているレイ・マクドナルドさんとクレアさん、アルバータ州政府在日事務所の田中マサ子商務官が来学しました。学長表敬の後、場所を国際医学交流センターに移し、国際交流委員の松本教授、佐藤教授、根本助教授の同席のもと、国際シンポジウム、アルバータ州北海道姉妹提携20周年事業、北方医学交流事業についての詳しい打ち合わせを行いました。


●デンマーク・オーフス県ミッション

●○国際交流レポート○●

耳鼻咽喉科学講座  氷見 徹夫 教授

フィンランド・タンペレ大学

派遣期間:1999年11月17日〜12月2日

聴覚障害者をとりまく環境 In Finland

  11月から12月頃のフィンランドは、クリスマス前の最も寂しい季節です。出発前には「北欧はいいですね、白夜で・・・。」などと羨ましがられました。白夜があるのは、夏至の頃、すなわち6月の話であって、11月、12月は冬至の季節ですから、当然、昼が短く夜が長い。さらに、雪の季節の前であるため、みぞれ混じりの冷たい雨が降りやすい季節です。フィンランドの人たちも、残念ながらこの季節が一番嫌いだとのことです。

 フィンランドは緯度が高い割(ヘルシンキで北緯60度)に、バルト海の暖流のおかげで、海岸線の都市は温暖な気候に恵まれています。もちろん、北極圏に近い都市、内陸の都市は極寒ですが・・・。今回のホスト大学はタンペレ大学病院耳鼻咽喉科でした。タンペレ市はフィンランド第二の都市で、内陸に位置し、人口は約18万人で、周辺をあわせても3?40万人の小さな都市です。二つの湖に挟まれた工業都市ですが、非常に美しい文化都市でもあります。ちなみに、ムーミン博物館(ムーミン谷)があり、日本人観光客も多く訪れるそうです。今回のフィンランド訪問は、現在行っているヘルシンキ大学との中耳炎に関する共同研究に関することと、タンペレ大学との粘膜免疫に関する共同研究のプロジェクト作成を主な目的としていました。

 ところで、耳鼻咽喉科領域では、高度聴覚障害に対する人工臓器の応用による治療法の開発によって、最近十年間で、小児の高度難聴の治療法が大きく変わってきました。さらに、今年の4月より、厚生省主導で新生児の聴覚スクリーニングが全国規模で行われることが計画されており、今後は聴覚障害児の早期発見、早期治療が従来と大きく異なった方法で行われるようになります。このため、北欧における聴覚障害スクリーニングの社会的取り組みと、聴覚障害児の教育システムについて知ることも目的とし、各関連施設を訪問することにしました。

 フィンランドでも基本的な聴覚障害児の発見のためのシステム、聴覚教育の方法はあまり日本と変わりません。しかし、高福祉社会のフィンランドでは、たとえば補聴器の必要な人へはすべて無償で提供される、ほとんど劇場、ホールなどの公共施設では、ループ(補聴器を有効に使うための無線装置)が設置されており(北海道ではKitaraに初めて設置されたのみです)社会の障害者への取り組みには、大きな違いが見られます。

 フィンランドでの乳幼児聴覚スクリーニングは、生後8ヶ月の時にまず日本の保健婦に相当するSister nurseと呼ばれる看護婦さんによって最初のスクリーニングが行われます。このときは母親への問診や、簡単な音への反応の検査に留まります。次の聴覚検査は2歳時に行われます。ここでは発達の検査とともに、言語の遅れの検査を行います。さらに4歳時の検診で、最終的な聴覚障害の有無の判定を行います。これらのスクリーニングで、聴覚障害の疑いを認めた乳幼児は、地域の家庭医(コミュニティごとのGeneral Physician)を受診することになります。そこでは、まず鼓膜を観察し中耳炎の有無を検査し、さらに小児用の簡易聴力検査を行います。

 この検査で聴覚障害の疑いがある場合に初めて、全国に25施設ある基幹病院に送られ(フィンランドの人口は北海道とほぼ同じ)、専門医を受診することになります。フィンランドでも聴覚を専門とする耳鼻咽喉科医の数は少なく、現時点ではこのようなシステムをを用いているようです。しかし、全世界的に出生後すぐに聴覚障害を発見することの重要性が強調されており、この国でも他のヨーロッパ諸国と同様に、システムが確立でき次第、新生児聴覚スクリーニングに切り替える予定とのことです。

 一方、聴覚障害の教育システムも基本的には日本と異なる点は少ないようでした。乳幼児のための幼稚園(Kindergarten)、就学期間は異なりますが、日本と同様の聾学校としての教育機関があります。

 乳幼児のためにたくさんのKindergartenが市内にはありますが、その一つは障害児も受け入れるようになっています。タンペレ市の障害児用の施設では、65人の子供たちのうち、15人は聴覚障害児であり、6人の聴覚トレーニングのための専任教員が配置されています。コミュニケーションの手段として、聴覚の活用と手話の併用というトータルコミュニケーションと呼ばれる方法で教育しています。子供たちの中には70キロ離れたところから毎日通っている子供がいました。驚いたことに、一人で行き帰りともタクシーに乗って通っているとのことです。ただし、交通費はすべて国が支給するそうです。

 フィンランドでの小・中等教育は、9年間の一貫教育で、聴覚障害児は11年間かけて、この教育課程を終えるようになっています。フィンランド全国で16の障害者のための施設があり、13施設が学校施設のみ、3施設が全寮制を取っています(北海道は7施設)。日本と形態的に異なるのは、フィンランドの施設は、日本の聾学校と養護学校とを併設したような形態になっていることです。実際の授業風景は日本の聾学校と同じで、一つのクラスは4?5人の生徒で構成され、一人の教員がこのクラスを担当します。違いは人種と言語の違いのみとの印象を受けます。

 校長先生から、子供たちと一緒にお昼の給食を食べましょうと誘われ(なんと午前10時半に早くもお昼を食べるのです)、何十年ぶりに、給食を食べることになりました。この日に出された給食は、野菜を煮込んだものと、パンとこれに牛乳が付くだけの簡単な物です。食事のための専用のカフェテリアがあり、食事の内容はともかく、雰囲気としては病院の地下食堂よりずっと良い!(失礼)

 一人の教員から、「ぜひ、会ってほしい高校生がいるので、時間を作ってほしい」と言われ、今度は普通高校を訪問することになりました。ある高校生の男の子は、生まれつきの視覚障害と進行性の聴覚障害を持っています。聴覚障害は幸いに人工内耳という手術を受けて2年前に聞こえを取り戻すことができました。おそらく、治療法のない時代では、ヘレンケラーと同じような三重苦を持つことになっていたでしょう。

 この写真は、授業中に許可をもらって撮影したものです。写ってはいませんが、同じ部屋で30人程度の普通の高校生が同時に授業を受けています。この高校生は、理数系の成績がトップクラスで、今年大学に進学予定とのことです。案内してくれた教官は、本人の才能と努力が前提だが、どのような重複障害があっても、その子供たちをサポートできる社会システムが、この国にあることを強調したかったようです。

 写真の隣に座ってキーボードを打っている女性は、教師の言葉と黒板の文字などを授業中にずっと、即時に入力しており、彼は点字用のモニター(指で触っている機械)で授業内容を理解し読みとってゆきます。このようにして、どの授業時間も、この女性が専任通訳者として横についています(アメリカでも聴覚障害者が入学した場合には、同様の補助が義務づけられています)。さらに、別室には彼のためだけの各種のコンピュータを導入した、自習室が設けられていて、学校をあげて、支援しているとのことでした。

 国家社会が成熟しているかどうかを計る尺度にはいろいろな要素が考えられますが、障害者をどのように受け止めているか、障害者がどれだけ自然に一般の健常人にとけ込んでいるかも、一つの尺度になるでしょう。はたから見ていると、非常にうらやましく見える高福祉社会のフィンランドでも、この福祉のための弊害や矛盾が生まれてきているそうです。しかし、非常にまれな障害を持つ子供たちであっても、将来の可能性にかけて、お金と人を惜しみなくかけるという社会の姿勢だけは見習うべきことなのでしょう。

★☆国際交流レポート☆★

救急集中治療部  伊藤 靖 助手

アメリカ・マサチューセッツ州立大学

派遣期間:1999年3月15日〜3月28日

1999年3月15日から3月28日まで、マサチューセッツ州立大学(以下UMAS)の救急医学講座(リチャード・V・アガベビアン教授主宰)に国際交流の在外研究者として受け入れていただきました。同教室と当救急集中治療部は、国際交流の在外研究者として金子正光名誉教授(前救急集中治療部教授)が1995年3月に渡米したのを始めとして、今回の私の渡米にいたるまで活発に人材交流を行ってきました。 今回、私の国際交流レポートとともに、今までのUMAS救急医学講座と当救急集中治療部の交流関係の経緯について述べたいと思います。

 前述の如く1995年3月に金子名誉教授の渡米に続き、1996年3月にはUMASの救急医学教室のリチャード・V・アガベビアン教授が国際交流の在外研究者として本学にこられました。UMASの附属病院は敷地内に救急専用ヘリコプターを持ち、これを活用して周辺地域を含めた救急医療を行う外傷センター併設している。この外傷センターは救急医学講座のスタッフが運営にあたっており、これを主宰しているのがアガベビアン教授で、災害医療の教育・研究にも積極的でアメリカ連邦緊急管理庁(FEMA)の活動にも参加しています。このようにUMASと当救急集中治療部とはその活動において共通点が多く、アガベビアン教授は毎朝夕のカンファレンスに参加し、当教室員との間で日本の救急医療の現状と日米間の救急医療システムの違いについてディスカッションをされていかれました。日本では、1993年の北海道南西沖地震、1995年の阪神淡路大震災、1997年の豊浜トンネル崩落事故などの災害を経験したばかりで、救急医学の中でも災害医療への取り組みが議論されている時期であったため、アガベビアン教授のご専門である災害医療に関するご講演は大変刺激になるとともに参考になりました。一方、アガベビアン教授は当教室が積極的に施行している蘇生法としての人工心肺の応用やこの時期導入された頭部外傷例や蘇生後脳症に対する脳低温療法について興味を持たれ帰国したようです。

 アガベビアン教授の帰国後、日米間の救急医療システムの違いについて興味を持った当教室の丹野は1996年3月から平成9年9月までUMASの救急医学教室に留学し、日米の救急医療システムの比較検討を行い、また米国の災害医療への取り組みに関して実践的な経験をつんできました。 

 1996年7月にはUMAS救急医学教室主催のThe Emergency course for NIS RegionalTraining Centersに金子教授、伊藤、吉田が参加し、救急医学の国際教育を経験しました。このコースでは主に旧ソ連に属する東ヨーロッパの国々から救急医が参加していましたが、毎日ロシア語と英語で食事を伴にし、複雑な国際交流でしたが貴重な体験となりました。この渡米ではアガベビアン教授と共にアメリカの災害対策の総本山ともいうべき、ワシントンDCのFEMA本部を訪問し各分野のレクチャーを受け、本邦の災害対策の遅れを痛感しました。

 1996年11月には、UMAS救急医学講座のフランシス・P・レンジー助教授が国際交流事業で来日されました。また同時期に金子教授が主宰した第二回日本集団災害研究会(現 日本集団災害学会)はアガベビアン教授を招聘し、先のFEMAからの特別講演者と伴に米国の災害医療の現状についてご講演をいただき、学会は盛会となりました。

 このように両教室の交流が深まる中、当教室では選択的脳低温療法に関する基礎的研究が起案されましたが、実験設備もままならないことから、設備の整備されているUMAS救急医学教室との共同研究を申し入れ、1997年12月に当教室から森が渡米しました。この実験には斎藤、倉田、武山の教室員がそれぞれ3ヶ月交代で渡米・滞在し、森とともに共同実験を行うと伴に、それぞれ貴重な海外生活を体験しました。現在、この実験の組織標本は日本に持ちかえられ、森が当大学第一病理学教室にお世話になり解析を加えているところで、脳低温療法の脳保護機序の解明が期待されています。

 1999年3月、この度の私の国際交流在外研究者として渡米はこの実験の後半にあたり、滞在中はUMASの地階にある動物実験室に泊り込みで24時間のブタの実験に参加しました。また、この基礎的研究のバックグランドとして、当教室が取り組んでいる蘇生法としての人工心肺の臨床応用や脳低温療法の臨床例について意見交換をするとともに、レジデント達の送別会などにも参加し、瞬く間に過ぎた有意義な2週間でした。

 UMASのあるマサチューセッツ州ウースター市はアメリカ東部6州に位置し、ボストンに次ぐ人口第二位の都市であり、湖や丘陵からなる地形に広葉樹と針葉樹が混ざりあい気候風景が北海道に大変良く似ています。私の訪れた3月はまだ雪が少し残っており、気温は北海道と同様で春はまだでした。この地はボストンに近いことから新鮮な海産物にも恵まれ、滞在中はアガベビアン教授の自慢のワインと伴に何度となく堪能させていただきました。今回の渡米は私にとっては4回目のUMAS訪問でありましたが、2週間と滞在期間も長く、2年弱過ごした西海岸と伴に思い出深い地となりました。帰国に際して、アガベビアン教授からは両教室間の交流継続の申し出があり、現在もいくつかの共同臨床研究が継続されています。

 以上、今回の国際交流在外研究者としての渡米レポートとこれに至る当教室とUMAS救急医学教室との交流について述べました。貴重な体験をさせて頂いたアガベビアン教授をはじめUMAS救急医学教室のスタッフの皆様と本学国際交流の関係者の皆様に深く感謝いたします。

■JICA特設研修について




 


平成7年度から始められた、JICAの特設集団研修「医療放射線実務コース」、「臨床看護実務コース」が平成11年度をもって5年間の受入プログラムを終了をしました。


 放射線部 藤原 保男 副部長

 我が放射線部もJICA受け入れについては、色々な問題を抱えながらも当初約束の5年を無事終了しました。今後の受け入れの是非については反省も含め検討しなければと考えているところであります。初年度は研修員受け入れにあたって、色々な思案の末カリキュラム作成に取り組んだスタッフ苦労はさぞ大変だったと思います。まず、大きく分けて講義、実習そして研修見学と3つの部分の時間的なバランスが良く考慮されていますが、結果的には研修員一人一人の要望の違いがあり、満足しきれない部分があっても仕方ないと、私自身納得しました。

 しかし、終わってみると色々な国々の人たちと触れ合うチャンスがあり、又、医学を通じてさまざまな角度から日本を知り理解してもらえる事を考えると、JICAの研修員の受け入れはは大いに意義のあるものと思います。部員においては受入の研修に必要な講義のプレゼンテーション又は教材の準備などで、自分自身の勉強にもなった事と思います。最後に今までに研修を受けた研修員の皆様がこのコースで学んだ知識をそれぞれの国での業務に反映されていることを期待しております。 

■海外からの研修生を受け入れて

看護部 小笠原典子 副部長 

 看護部では、JICAの要請を受け、平成7年から毎年5名ずつ、開発途上国の看護婦の実務研修を受け入れている。今までにアジア、アフリカ、中南米、中近東の14カ国から25名の看護婦が母子看護及び心臓手術を受ける患者の看護について学んでいる。

 患者さん個々を尊重した関わり、看護計画を基にしたケアの継続、患者や家族の心理面への配慮等看護婦の主体的な取り組みの大切さを強調しているが、言葉の問題もあって、十分伝えられない部分もある。自国の人材や医療器材の不足を訴え、病院のシステムや医療機器に目が向きがちであるが、2ヶ月半の研修は看護の重要性を再認識する機会をになっている。彼女らの質素な生活ぶりには戸惑うこともあるが、自国の看護の質向上のために貢献しようとする逞しさは頼もしく、教えられる。

 文化や医療事情の違う研修生の多様なニーズに応えるためには苦慮することも多いが、国際的な視野を広げられる貴重な体験となっている。


◆◇自己紹介とお国紹介◇◆

訪問研究員  弌 順 水 さん(病理学第一講座)

  私は弌順水と申します。中国上海から来ています。1976年に上海衛生学校を卒業し、その後5年間上海医科大学で勉強しました。大学を卒業してから10年間、上海YANGPU地区中央病院の内科で働きました。心臓脈疾患における診断と療法を学ぶために、1989年と1996年の二度に渡り短期間ですが北京に行き、中国科学アカデミー附属FUWAI病院と中国医科大学附属CHAOYANG病院で働きました。1995年からは上海ANTU病院で内科長として勤務しました。

 上海は中国の東部に位置する美しく先進的な都市です。この10年間で上海では様々な驚くべき変化がありました。私はこの都市が大好きですし、急速な発展を楽しみにしています。上海の人口は約1、300万人で、そのうち100万人以上が私の働いていたYANGPU地区に住んでいます。都市の発展とともに、人口の高齢化が進んでいます。上海の死亡率の約3分の1が癌、心臓疾患や脳卒中によるものです。

 癌による重病患者を診たとき私はいつも癌に苦しむ人に対して私に何か出来ることがないのかと自問自答しています。この答えを探すために私は札幌医科大学の病理学第一講座に訪問研究員として来日しました。現在私は癌免疫学療法のグループに参加しています。幸いにして、日本語の学習や腫瘍の研究、札幌に住むためにいろいろと助けてくれる多くの親切な日本人に会うことができ、すぐにここでの研究と暮らしに慣れることが出来ました。

 初めて雪に覆われた景色を見たときはとても驚くと同時に胸が躍りました。雪はここでの生活をほんの少しだけ不自由にしますが、私はすべてが雪に包まれるこの眺めが大好きです。

 


 

  My name is Rong Shunshui, I come from Shanghai of the P.R.C. and graduated from Shanghai Yangpu Sanitary School in 1976, then studied in Shanghai Medical University for five years. After graduated from University, I worked in the internal medical department of Shanghai Yangpu District Central Hospital for 10 years. In order to learning the invasive diagnostic and therapeutic methods used in cardiovascular diseases, I went to Peking two times in 1989 and 1996, respectively, worked in Fuwai Hospital attached to China Medicine Science Academy and Chaoyang Hospital attached to China Capital Medical University for short time. From 1995, I worked at Shanghai Antu Hospital as the head of the internal medical department.

  Shanghai is a beautiful modern city located in the eastern area of China. Recent ten years, many wonderful changes had taken places in Shanghai. I love our city and hope our city develops much fast. There are 13,000,000 population in Shanghai, and more than 1,000,000 population lived in Yangpu District where I worked in. Accompanied by the development of the city, elderly people become more and more. The first three mortality is tumors, heart diseases and cerebral arterial accidents in Shanghai. When I saw a dying patient because of a tumor, I always ask myself that is there nothing I can do for the patient who suffered from one kind of cancers? It is the reason why I came to the First Pathology Department of the Sapporo Medical University as a visiting scholar. Now I have participated in the group of cancer immunotherapy. Fortunately, I have met so many kindly Japanese who helped me in every site included learning Japanese, researching tumor, living in Sapporo and so on that I could settle down quickly and used to studying and living here.

  When I first saw the white snow covered everything, so surprised and excited I was. Though the snow makes living here some bit of inconvenience, I am still love the white scene everywhere.


◇◆自己紹介レポート◇◆

海外技術研修員   松 涛 さん (内科学第二講座)

 私は中国からの研修員、松涛と申します。1999年6月に中国の哈爾浜から来ました。札幌医科大学内科学第二講座で十ヶ月間研修をしています。

 私は1993年から哈爾浜医科大学の臨床医学部を卒業し、黒竜江省省立病院で仕事をしています。今回は札幌医科大学内科学第二講座で進んだ循環器科の検査と治療について研修しています。私は島本先生、土橋先生たちにしたがって治療法を勉強しました。日本の先生たちの厳しい研究態度が一番印象的でした。

 初めて札幌に来て、はっきりした四季、見渡す限りの緑、純朴で親切な北海道の人々、美しい北国の自然の風物などと出会い、好きになりました。冬になって、たくさんの雪が降っておもしろかったです。白銀の世界は清く、一種変わった風情があります。

 札幌で十ヶ月間の滞在期間中、いろいろな勉強と生活の体験を忘れません。研修期間中多くの方にいろいろ大変お世話になりました。

○◎お知らせ◎○

 札幌医科大学のHP開設に伴い、国際交流のページも整備されています。教員在外研究、訪問研究員など各種様式も載せていますので、ご活用下さい。

http://web.sapmed.ac.jp/kokusai

 

















 


【編集後記】
 さっぽろの観光一大イベントである「雪まつり」も終わり、大通公園もただの雪のかたまりと化し、雪解けを待つだけの寂しい季節になりました。
 シンポジウムの準備、学生派遣の準備、相次ぐ表敬訪問、海外からのメールの嵐と息つく暇もない毎日です。「国際交流が動いている」ということをひしひしと実感しています。できることから一つずつ解決して、身の回りの整理整頓を進めることは、現在のわがセクションの大きな課題です。・・・頑張ります。



編集発行/札幌医科大学国際交流部
発行日 /2000年2月28日
問合せ先/札幌医科大学事務局企画課(国際・学術交流)
   〒060-8556
   札幌市中央区南1条西17丁目  

011-611-2111(内線2166)
e-mail satsui.koryu@pref.hokkaido.jp