Entered: [1999.10.09] Updated: [1999.10.30] E-会報 No. 45(1999年 7月)
海外レポート =留学体験記=

ハンザ都市リューッベク留学体験記
北海道大学大学院農学研究科応用生命科学専攻 応用分子生物学講座応用分子昆虫学分野
佐原 健


 1997年12月1日から1998年11月30日までの1年間ドイツ北部ハンブルク(Hamburg)の北西に電車で40分の所に位置するリューベック(Luebeck)のリューベック医科大学(Medizinische Universitaet zu Luebeck: MUL)のトラウト教授(Prof. Dr. rer. nat. W. Traut)のもとで,文部省在外研究員として勉強できる機会を得た.筆者の場合は追加募集であったため,留学のためのコンタクト時間は実質上数週間と非常に短かった(論文はやり取りしていたものの顔もハンブルクの空港で会うまで知らなかった).しかし,e-mailのおかげで色んなやり取りができ,必要な書類もすぐに作成していただいて,今振り返ってみると多分に面倒なことをお願いしたこと,また,それに素早い反応をして下さったトラウト先生と世界を身近にしてくれたe-mailに感謝するばかりでなのある.また,以外とe-mailでの連絡は失礼に当たらないらしい事も改めて知っ た次第であった.ただし,面倒くさがらず顔写真くらいは送っておかないと,迎えに来て貰ってもフィリピン人だと思われたり,孫娘を持つ老夫妻だと思ったりするのでご用心を.

Hansestadt Luebeck

 トラウト先生の弁によると「世界で最も重要な都市のひとつである・・,ただし500年前は」と評されるリューベックはハンザ同盟都市の盟主であり,ハンザ同盟が最も栄えた時代には現在のデンマークにも同盟都市がありその数も100を越えていたそうだが,現在もハンザの名を戴く都市はハンブルク,ブレーメン(Bremen),ロストック(Rostock)そしてリューベックあたりのみとのことであった.であるからして,この辺りの北ドイツは,日本人観光客にによく知られるバイエルン地方とはその生い立ちが異なっている.リューベックは旧市街がバルト海(Ostsee)に注ぐトラベ川とトラベ運河(Trave)に囲まれゴシック,バロック,ロココなど様々な建築様式の建物と7つの塔を数える4つの大教会があり,第二次世界大戦の戦火はまぬがれなかったものの,現在も使用され続けておりUNESCO世界遺産として登録されている.街並みの一部はMuKに取り付けられたライブカメラ(http://www.muk.de/)にて御覧いただける.また,この街は「ブロッテンブルク家の人々」等の作品で知られるでノーベル賞作家のトーマス・マンの故郷としても知られている.兎に角,おおいに栄えた時代のあった場所で,古い建物と街並みがそのまま残る,ぶらぶらするのが楽しい街であった.クリスマス市で賑いホットワイン(Gluehwein)を頂ける以外には,冬の日の短いことに色んな厄介を覚えたが,サマータイムの実施されている時期は,街頭に椅子と机,パラソルがならび夜8時を過ぎてから出かけても外での酒盛りが楽しめるところなど筆者にとってはこの上ない街であった.海にも近く夏には砂浜で楽しめるはずであったが,暖かくない,晴れの日の少ない年に当たってしまい,泳ぐことは一度もなかったが.と言っても25℃になれば絶好の水泳日和とは北海道よりさらに低い水温で泳ぐのではないだろうか?晴れた日が多くそれほど暑くもないのに泳がされるよりはましだったのだろうか?

Institut Biologie, MUL

 この大学は1973年の5月7日に開学された新しい大学で,当時はMedizinische Hochschule zu Luebeckとされていたが1985年5月10日に前述の名称に変更,様々な学科が増設されている.筆者の所属していInstitut fuer Biologieはトラウト先生が初代ディレクターとして1981年に開設された.扱う生物材料によって彼と,ドクターコースのガーネット(Diplo.-Biol. Garnet Suck),シルビア(Diplo.-Biol. Sylvia Kuhn)のMegaselia(双翅目)グループ,ウィンキング教授(Prof. Dr. rer. nat. H. Winking),ポスドクのバーバラ(Dr. rer. nat. Baerbel Kunze),ディータ(Dr. rer. nat. Dieter Weichenhan)(彼は筆者の帰国した2日後にハビリテーション(教授資格試験)をパスした)のMus(マウス)のグループに便宜上分かれていた.いずれの教授も細胞分子遺伝学を専門とし,トラウト先生は昆虫を中心として現在は人およびマウスなどのFISHマッピング,遺伝子発現と染色体の関連,性決定の分子メカニズムなどの分野を手がけている.一方の,ウィンキング教授は,マウスのロバートソニアン型転座染色体の変異と進化についての権威であり,現在,sp100の遺伝子解析を手がけている.二人はそれぞれの得意分野の研究を伸展させながらも,インスティチュート全体として共同研究を行うという歩調をとっている.両教授以外は分子生物学を学んできた,および研究してきている方々であり新しい遺伝子の発見はすぐにマッピングへ,染色体異常は分子生物学的手法による解析へと相互の従来からの研究分野と80年代から伸展している分子生物分野が交流し,調和のとれた研究が行われている.

 これらドクターコース2人,ポスドク2人,教授2人がこの学科のポストであり,ドクターコースにもサラリーは支払われる.但し,教授の2ポストを除いてはいずれも期限付きで日本とは様相が異なる.また,過去にあった研究を続けられる限り教授職を持ちうるといった制度も,現在新規のものは認められておらず,日本で言うところの名誉教授なども新規にはないようである.テクニシャンは教授が2人,ポスドクが1人雇用できこれらは自分から移動しない限りパーマネントな職であるが,研究者が変われば変わるようであるし,自らよりよい条件と適した職を求めて移動するものらしい.その他には授業の準備(プレパラート),生物の管理,実験器具洗浄等の方々が所属しており,総数18名の小さな学科である.

Dr. Frantisek Marec

 僕の留学中ほぼ全般にわたってもう一人の客員研究員としてチェコ共和国(Czech republick) のチェコ科学アカデミー昆虫学研究所(Institute of Entomology, Czeck academy of science)からフランティゼック・マーレッツが滞在していた.彼は2度目のリューベック滞在であり,フンボルト財団のフェローであった.トラウト先生と共著論文を多数出していたので名前は知っていたが,留学するまで一緒に滞在して共同研究が出来るなどとは思っておらず,ラッキーとだった(これもトラウト先生の計らいと言うことを後で知ることになったのだが).天然パーマに口ひげ,眼鏡はかけて無く,スポーツ好き,ちょうどフランスでワールドカップサッカーが開催され,色んな面で話が合った.さらにヘビースモーカーでお酒大好きということも加わり気も合った.大学でも部屋を共有していたし,コンピュータも2人で一台を使っていたため,ブックマークはお互いのものまでそれぞれの国に持ち帰ってしまった.

 フランティゼックはフロリダ大学,ローマ大学などのラボで研究業績を積み,ショウジョウバエ(Drosophila)の翅の突然変異誘起率による突然変異源となる化学物質の活性検定や害虫コントロールのための遺伝的性比調節(sexing)さらにリューベックではスジコナマダラメイガ(Ephesita)の突然変異と染色体との関連を電子顕微鏡により解析を進めてきた実績を持っていた.さらに,昆虫および節足動物についての分類に造詣が深く,共同研究成果の一つを僕のファーストで出した共著論文でも大いに教えを請うた.因みに後述する研究テーマで少なくとも3人で3本それぞれファーストオーサーを取って論文を纏めようということになったうちの一つである.

Deutsche

 英語もままならない著者にとっての重大問題は言葉であった.在研の申請には言葉についても留学先でのコミニュケーション手段はどうするのかといった問いがある.勿論,英語で問題なくコミニュケーションできると書いた.が,問題がないかどうかは行かないことには分からない状態であったのが実際であった.e-mail等のやり取りは英語だったが,ラボでも英語で全員と,いや,ドイツ人には問題なくともこちらの言っていることが通じるのか?はたまた,ドイツ語以外話したくないと言う意固地な研究者がいたとしても不思議でもない.ドイツ語なんて習ったのはいつの事やら,一生使わないと決めつけ全てを放棄した記憶だけがよみがえってくる.など,とどのつまりは大不安だったわけである.そこで簡単なドイツ語くらいはと思い,知り合いの紹介でオーストリア人にドイツ語を教えていただくことにして週1回,少ないと思ったが,金銭的にも時間にもゆとりがなかったので挨拶と勘定,簡単な会話など付け焼き刃を磨いてみたりした.

 そんな不安も何のその,案ずるより生むが易しとはこのことであったか!トラウト先生は科学をやって行く者にとって英語は筆数という考えを1975年頃痛感したそうで(ドイツ語が自然科学論文からどんどん無くなっていくのはさぞかし残念であったろうが),それまでのドイツ語で行っていた論文発表を全て英語に変えたそうであった.だから,ラボのドクターコースの学生には出来るだけ英語で話す機会をと考えており,僕もその練習台の一人だったようだ(あちらが練習になったとは到底思えないが・・).また,ドイツ人の英語の発音はなんと分かりやすいことか!オーストリア人の発音が北ドイツでのそれと如何に違うことか(ミュンヘンに行った折りガーネットが地元のドイツ人の話がよく分からないとも言っていた)!結局,英語の単語さえ分かればコミニュケーションは何ら問題なく行えたが,フランティゼックが英語で話してくれたのもスムーズなコミュニケーションに大いに役立った.というのも彼は母国語の他にロシア語,ドイツ語そして英語が何ら問題なく出来たし,前回の滞在ではほとんどドイツ語で話していたそうなので.それにしてもラボで筆者が少しドイツ語を話すと,誰もが誉めてくれた.筆者のドイツ語が相当下手であったのだろう.英語においてもlとrの発音はしっかりドイツ語化しており,この区別は上手くできずじまいだった.

 しかしながら,町中で買い物をする,食事をする,はたまた,ぶらぶらするだけ でもやはりドイツ語は必要だった.メニュー(Speisekarte)の中で分かる物を最初は,だんだん冒険もしてみたが,美味しくいただける物はほぼ無かった.帰国してからも良くビール(Bier)とソーセージ(Wurst),ジャガイモ(Kartoffel)が美味しいでしょう等の質問を受けたが,ジャガイモはだいたい北海道産の方が美味しかったし,ソーセージはもともとあまり好きではない.海に近かったのでニシン,鮭,カレイなどが食べられそちらの方が良かったとは言えるが,あまり身にならないワイン,ビールやマンダリンオレンジの生ジュース以外に旨いと言える物は,招待にあずかったときに食べるスープと魚料理だけだった.日本の食文化は豊かであるか,自分が芯からの日本人であることが身にしみて分かった.分化が異なり,食事が合わないにしても,ドイツ人と日本人,気質が似ているのは不思議なことだったし,リューベックが第三の故郷と思えるほどに素晴らしい経験で,一年間があっという間に過ぎたのは幸せでした.

Mitarbeit

 筆者はもともとカイコの細胞遺伝をやっていましたから,それに関連していることをやってみようかと留学前には考えていましたが,Megaseliaの性決定をドクターコースの2人がやっており,シルビアはdsxとsxlのホモローグさらに雄特異的に発現する遺伝子についての解析を,ガーネットはこのハエの性決定の特徴である動く雄決定ファクター(M)を突き止め何とかクローニングしようとしていました.始めの2ヶ月くらいはラボの基本的な実験手順や使っている方法を学ぶため,また,これらの研究に興味もあったので雄特異的発現遺伝子の解析などやっていたのですが,所詮は彼女たちの仕事と思い,また,カイコでの性決定遺伝子が判明してきた事もあってこれを中途半端にやめて,鱗翅目では未だはっきりしないヘテロザイガスな性染色体(YもしくはW)の同定をやることにしました.これはトラウト先生のアイデアでComparative genomic hybridization (CGH)を使い性染色体の量的並びに質的な差異をシグナルとして検出する物でした.また,フランティゼックはEphestiaのミュータントとテロメアリピートとの関連を明らかにするのが目的でしたので,行きがけの駄賃として,未だFISHによる研究が2,3例しかなかった昆虫とその他節足動物のテロメアにおけるリピートの有無を検討してみるということが僕の主たる仕事,前述の二つはそれぞれがファーストオーサーとなることがここで決まり,お互いの仕事を賄いあうことでMitarbeitとすることになりました.昆虫染色体標本作りとテロメリックリピートのプローブは僕とフランティゼックでやり,CGHの技術確立とマウ スと人の染色体はトラウト先生とテクニシャンのウルリケ(Ulrike Kolbus)に任せました.筆者はFISHのテクニックがありませんでしたので,ウルリケには本当に色々教えて貰いました.彼女は非常に優秀な方でNatureにも論文を発表しているほどでした.

 これらの研究の中で3つほど記述したいことがありました.一つ目は残念なことでしたが,人のCGHに関して性染色体に注目して我々と同時期に行っていたフランスのグループが先に論文を出したことでした.重大な影響は無かったし,我々の方法よりも良かったので参考になったくらいですが,先を越されたことは間違いなく残念な思いをしました.二つ目は論文に掲載する人の染色体に筆者の染色体が選ばれたことでした.これは,学生実習を通して作成したプレパラートでスタッフのそれらを退け,堂々の一位に輝きました.ラボの中でも色んな所にべたべた張ってあり,恥ずかしいやら嬉しいやら複雑な心境を味わいました.三つ目はさらに恥ずかしいことなのですが,プローブとなるテロメリックリピートをうまく取れないでいたところ偶然,鋳型なしのPCRにより増幅でき,これは論文を書かねばと意気込んでいたところ,1991年なんと7年も前に論文が出ており,改めて自分の勉強不足を思い知らされました.それまでに2ヶ月くらいかかりましたので,論文検索して読むだけなら1週間もかからなかったと思うと本当に馬鹿です.勉強になりました.

 結局CGHは情報科学科のドクターコース,トーマス(Thoms D. Otto)をさらなる共同研究者として発展させて論文もChromosomaにアクセプトされました.また,テロメアに関する染色体研究も先頃Chromosome Res.にアクセプトされ,残るは後一報です.ずいぶん論文の書き方を勉強できる良い機会になりましたし,研究手法と科学に対する西洋のすっきりと整理された物の考え方が少しだけ分かったような気もしています.そして,現代科学はやはり西洋の物であって我々東洋人とは異なる土壌に成り立っているのだとはっきり認識しました.ただ,どうやったらすっきりと整理した考え方となるのか,ここではっきり説明出来ないのが,勉強不足というか,まさに東洋的でもあり今のところ排除すべき部分なのでしょうが.


 最後に留学を強く薦めて下さった飯塚敏彦先生と留守中の授業を肩代わりするなどサポートしていただいた応用分子昆虫学講座のスタッフに深く感謝します.また,北大農学部応用生命科学科の皆様,附属農場のスタッフにこの場を借りてお礼を申し上げます.さらに,留学中にお隣同士だった,九州大学の正代隆義先生夫妻に色んな面倒を見ていただけたことに感謝いたします.


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編集幹事:伴戸 久徳 hban@abs.agr.hokudai.ac.jp